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2023年10月振り返り ~人は1000年前から結論ありきで天動説を支持するし、絵画は尊いものって言う~ (「近代美学入門」をほんの少しレビュー)

 2023年の振り返り↓


<料理>

・圧力鍋でシチューを作ったら事故った

 だいたいツイートの通りです。全部の具材を圧力鍋に入れて加熱したらこうなりました。ジャガイモですらそれなりに形が残っていたのに!舌触りが微妙なシチューが出来上がりました。

 逆に考えると、ブロッコリーの野菜感がほぼないので、野菜嫌いの子どもでも食べやすいかもしれません。そんな機会が来る予定はありませんけど。

・またラー油を作った

 先月初めて作ってみたのですが、これが思いのほか大変美味しいもので、もう一度作ってしまいました。作り方は先月同様に『自家製ラー油の作り方を「四川料理のスゴイ人」に教わってきた【ハマる味】』を参考にしました。ただ材料は少し改変して、この前買った「人気店の麻婆豆腐の技術」に掲載されていたラー油の作り方をちょっと参考にして、ニンニクやローリエを加えてみました。両方ともおもしろいのでオススメです。

<勉強・読書>

・UdemyのBlender講座を一つ終わらせる

 これです。ヘッダー画像はその製作物です。まぁまだ全然使いこなせている気はしませんが、それでも今までこのテの講座を最後までこなしたことがなかったので、そこは自分で自分を褒めます。決して満足してはいけませんが。

・本は一冊だけ読破 そして悲しみを見る

 読んだのは「近代美学入門」です。本屋に行って目に付いたので買いました。ムズそうな装丁でありながらそこまで堅くない文体だったので、結構スラスラ読めました。

 今日読み終えたばかりなのでまとまった感想が出せませんが、結構おもしろい本でした。「自然=美しい」という図式や、そもそも芸術の概念がたかだかここ400年くらいで生まれたらしいです。マジか。

 一個、人間の愚かさが見える悲しい記述がありました。昔(古代末期~中世)は学問や技術に対して「自由」か「機械的」かという分類がなされていたようで、文芸・音楽は前者、絵画・彫刻・建築は後者に分かれていました(機械とはmachineの意味ではなく、体を使う技術全般のこと。職人技術チックなもの)。「自由」は肉体労働から解放された身分が学ぶもので、「機械的」は「奴隷の技術」と言われてたそうです。

 状況が変わったのはルネサンス時代になってから。画家・彫刻家・建築家らによって「自分たちの仕事はそこらの職人技術と違って高級なものなんだぞ」という主張をします。うわあ、厄介にオタクなありがちな他人を下げて何かを上げるタイプの人だ!自分たちも蔑まれた側の苦しみを知っているのに!

 しかし、さらに悲しいのはこの後の記述です。

 ルネサンス時代の絵画論では、詩と比較する詩画比較論が流行しました。詩との類似を強調することで、絵画の価値を主張しようとしたのです
(中略)
 そうした主張をするための方便として古代ローマの詩人ホラティウス(前1世紀)による「ウト・ピクトゥーラ・ポエーシス」という言葉が利用されました。詩は絵画と同様だという意味で、「詩は絵のように」と訳されます。
 ただし、ホラティウス自身は次のような趣旨で発言しました。絵画には近くで細部をみたほうがようものもあれば、何度見ても飽きないものもある。詩も同じで、様々な特徴の作品があり、その特徴に応じた条件で考察スべきだ、と。原文ではコレ以上の含意はありません。
 ところがルネサンス時代には、この言葉がもとの文脈から切り離され、詩と絵画が似ているという主張を正当化するために引かれました。
 ときには順番も入れ替えられました。絵画も詩と同じように聖書や叙事詩から題材を選ぶべきもので、だから絵画も品位あるものだ、といった具合です。

近代美学入門 p51 太字はこの記事での改変

 自分たちの仕事が尊いと主張するために使われた理論が約1500年前の著作を曲解したものです。悲しすぎる。さらに悲しいのは、科学(天動説)の文脈でも全く同じ話があるのです。以下は「近代美学入門」とは別の本の話です(「科学者はなぜ神を信じるのか」)。

 ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたことに対し、宗教裁判にかけられたことは有名すぎるエピソードです。裁かれた理由は「教会が禁じている地動説を唱えたから」なのですが、別にこれは教会がそう主張しただけで聖書には載っていない話です。なら、何が論拠になったのでしょうか。

 ローマ帝国がギリシャを打ち破った後、ローマ人は初めは哲学・芸術・文学などに秀でたギリシャ文化を尊重したものの、「こんなのに傾倒してるから負けたんじゃね?」と手のひら返しをして軽視して廃れていきました。その中には数学も含まれていました。

 ガリレオは観察と理論によって地動説を裏付けて主張しましたが、ローマ教会がそれを認めません。理由はアリストテレスがそう言っていたからです。これ、ネタで書いているわけではなく、本気でそう言っています。

 権力を手にした者は、それを守ろうとするものです。教会はやがて、自分たちの権威を脅かす対立宗派や新興勢力を封じるために、教会が公認した考えのみを「正統」とし、それと異なる考えを「異端」として断罪する宗教裁判をおこなうようになります。(中略)なかでも後世まで大きな影響を与えたのが、ドミニコ会の会士でありパリ大学の教授もつとめた神学者トマス゠アクイナス(1225頃~1274:図2‐6)の大著『神学大全』を、14世紀初めに教会公認のテキストとしたことでした。
 トマス゠アクイナスの神学がめざしたのは、信仰と理性の一致でした。いうなれば、神の存在を「科学」によって証明しようとしたわけです。そして、彼が「理性」としてもちだしたのが、1500年も昔にアリストテレスが唱えた天動説だったのです。
 (中略)
 地動説が正しいことを知っている私たちは、天動説に固執した当時の教会を非科学的だと決めつけがちですが、実は教会が天動説を採用したのは「科学」によって理論武装するためだったのです。しかし、ローマ時代に衰退してしまっていた自然科学には、これに反駁する力はありませんでした。学者たちの目は夜空に向かうのではなく、1500年前の資料が眠る倉庫に向かっていました。

科学者はなぜ神を信じるのか(Kindle版) p56-58 太字はこの記事での改変

 これに固執したばかりにガリレオは宗教裁判にかけられてしまったわけです。奇しくも美学の時と同様に、1500年も前の話で理論武装をして主張したわけです。結局のところ、人は結論ありきで材料を持ち寄って説得力を持たそうとするのだという人の愚かさの歴史が垣間見えます。

 そうはいっても、現代の人間も固定観念に囚われて愚かな選択をしてしまうことはよくあります。これを回避するには、結局のところ、見識を深めるか新鮮な視点(無関係な人の意見)を取り入れるしかありません。常日頃から学びを得るとともに、自己満足に陥らないようにアウトプットを重ねて交流しないといけないなと思いました。

 ちなみにこのアリストテレスの天動説も、ピタゴラス派のフィロラオスが唱えた地動説を論駁し、誰も異を唱えられなかったことから根付いてしまっています(同p45以降)。ここで地動説が採用されていれば、ガリレオも「それでも地球は回っている」と叫ぶことはなかったでしょう。まあこう叫んだのはどうやら作り話らしいのですが

 なお、ここまでの話は「近代美学入門」の冒頭3割くらいの話なので、全然まとめきれてません。ごめんなさい

<その他> 

・ちょっとお高い買い物が多めだった

 Amazonプライムデーがあったので、買いたかったものをフツーに買いました。あと、3年くらい履き倒して見るからにボロボロになった靴も買い換えました。

 マウスについては上の妙に高くてキモい形をしたものを買ってみました。これ、結構快適です。高速スクロールが地味に便利です。


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