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温故知新(65)山背大兄王 西宮古墳 埼玉古墳群 前玉神社 舂米女王(上宮大娘姫王) 壬生車塚古墳 オリンポス山 稲荷山古墳 出羽三山 チチェン・イッツァ 白髪部王(蜂子皇子) 橘大郎女(小手子) アルテミス
山背大兄王の墓所の候補とされている生駒郡平群町の西宮古墳は、楯築遺跡(大日孁貴の墓と推定)や金蔵山古墳(垂仁天皇の陵墓と推定)とほぼ同緯度にあります(図1)。西宮古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、大樹寺(鳥取県八頭郡八頭町)や白兎神社の近くを通り、ジェッダと西宮古墳を結ぶラインは、出雲大社や中山神社の近くを通り、楯築遺跡と白兎神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。
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第24代仁賢天皇の后の春日大娘皇女の墓と推定される巣山古墳と、聖ミカエルの山を結ぶラインの近くに西宮古墳、摩氣神社(京都府南丹市)、大呂神社(舞鶴市)があります(図2)。摩氣神社の祭神は、天児屋根命の子神の大御饌津彦命 (おおみけつひこのみこと)とされていますが、大御気津姫命(大宜都比売神)とする説もあります。これらのラインから、西宮古墳の被葬者は古代天皇と関係があると推定され、西宮古墳は、山背大兄王の墓と推定されます。
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埼玉古墳群は、5世紀後半から7世紀中頃にかけて築かれた、前方後円墳8基、大型円墳2基、方墳1基並び1小円墳群で構成される古墳群です。埼玉古墳群の近くに、「埼玉」の地名の由来となった前玉神社(埼玉県行田市)(写真1)があります1)。
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上総国一宮 玉前神社とシラクサを結ぶラインの近くに、意富比神社(船橋大神宮)や前玉神社があります。このラインは、御岩神社(茨城県日立市)と三保の松原を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。御岩神社と三保の松原を結ぶラインの近くには、笠間稲荷神社(茨城県笠間市)や須山浅間神社(静岡県裾野市)があります(図3)。前玉神社は、玉前神社と関係があると推定されます。
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埼玉古墳群にある稲荷山古墳(写真トップ、2)からは、金錯銘を有する鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)が出土してます。前方後円墳の形態には強い規格性があり、同一の方向を向いています(写真3)。二子山古墳の中心軸を前方部の方向に延長すると7世紀前半の築造と推定される円墳の壬生車塚古墳(栃木県下都賀郡壬生町)があります(図4)。
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埼玉古墳群、壬生車塚古墳、孝元天皇と関係があると推定される宝登山神社を結ぶ三角形のラインを引くと、壬生車塚古墳と宝登山神社を結ぶラインは、埼玉古墳群とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。埼玉古墳群とマラケシュを結ぶラインは、群馬県前橋市の赤城神社(三夜沢)と赤城山を神体山として祀る赤城神社の間を通ります(図5)。三夜沢の赤城神社では、大己貴命(孝元天皇と推定)は東国開拓の神として祀られているので、宝登山に神を祀ったヤマトタケルは、孝元天皇かもしれません。
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埼玉古墳群と相馬小高神社(福島県南相馬市)を結ぶラインは、壬生車塚古墳の近くを通り、このラインは、豊受姫命を祀っていると推定される飯名神社(茨城県つくば市)とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近に壬生車塚古墳があります(図6)。埼玉古墳群と相馬小高神社を結ぶラインは、壬生車塚古墳や山本不動尊(福島県東白川郡棚倉町)の近くを通り、相馬小高神社と飯名神社を結ぶラインは、筑波山神社のある筑波山を通ります(図6)。また、飯名神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには最勝寺(茨城県筑西市)があります(図6)。
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壬生車塚古墳の被葬者は、豊受姫命と関係付けられる有力な女性と推定されます。斑鳩宮の山背大兄王は、643年(皇極天皇2年)に、蘇我入鹿の命令により、巨勢徳多らの兵の襲撃を受けていますが、『日本書紀』皇極紀によると、山背大兄王の家臣であった三輪文屋君は、入鹿の軍勢に襲われ斑鳩宮から生駒山に逃亡した際に、山背大兄王に、東国の「乳部(壬生部)」のもとで再起を期し、入鹿を討ってはどうかと進言しています。山背大兄王の妃は、舂米女王(つきしねのひめみこ)(上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのみこ))で、乳部(壬生部)に対する権限を持っていたと推定され、『日本書紀』に「蘇我臣は国政をほしいままにして、無礼の行いが多い。天に二日無く、地に二王は無い。何の理由で皇子の封民を思うままに使えたものか」といったことが記されています。『上宮聖徳太子伝補闕記』には山背大兄王の変で犠牲になった上宮家の諸王の中に「舂米女王」の名があげられているようですが、『上宮聖徳法王帝説』には、妃が殺されたという記述はないようです。東国の「乳部(壬生部)」が、壬生車塚古墳のある栃木県下都賀郡壬生町にあったとすると、壬生車塚古墳は、舂米女王(上宮大娘姫王)の墓で、山背大兄王が妃を東国の壬生に逃がしたのか、あるいは舂米女王の実家が壬生で、実家に居たのかもしれません。
山背大兄王の墓と推定される西宮古墳と壬生車塚古墳を結ぶラインは、伊勢国一の宮 椿大神社(三重県鈴鹿市)、恵那神社(岐阜県中津川市)、能護寺(あじさい寺)(埼玉県熊谷市)の近くを通り、このラインは、三保の松原とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。三保の松原とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには穂高岳や市杵嶋比売命を祀る海瀬神社(石川県鳳珠郡能登町)があります(図7)。このレイラインは、西宮古墳が山背大兄王の墓で、壬生車塚古墳が妃の舂米女王(上宮大娘姫王)の墓と推定されることと整合します。
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舂米女王(上宮大娘姫王)の父は、『上宮聖徳法王帝説』より厩戸皇子(崇峻天皇と推定)で、母は膳傾子の娘・膳部菩岐々美郎女です。膳氏の始祖は、『日本書紀』『高橋氏文』『新撰姓氏録』によると、孝元天皇の皇子の大彦命の孫にあたる磐鹿六鴈命とされ、『古事記』では大毘古命の子の比古伊那許士別命(ひこいなこじわけ の みこと)とされています。稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」を大彦命に比定する説があり、稲荷山古墳の被葬者が大彦命の子孫で、壬生車塚古墳が舂米女王(上宮大娘姫王)の墓とすると、稲荷山古墳のある埼玉古墳群と壬生車塚古墳がレイラインでつながっていることが理解できます。
出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山・月山・湯殿山の総称で、約1400年前、崇峻天皇の御子の蜂子皇子が開山したといわれています。日本武尊と橘豊日尊(用明天皇)を主祭神とする大高山神社(宮城県柴田郡大河原町)とオリンポス山を結ぶラインは月山を通り、このラインは彌彦神社と羽黒山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8)。これは、蜂子皇子と倭建命(出雲建、品陀真若王と推定)や天香山命(孝元天皇と推定)との関係を示していると推定されます。
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羽黒山と大高山神社を結ぶラインは、月山を通る彌彦神社とチチェン・イッツァを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。
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橘寺(奈良県高市郡明日香村)と荘内神社(鶴岡市)を結ぶラインは、大鳥神社(滋賀県甲賀市)、日輪神社(岐阜県高山市丹生川町)、彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)の近くを通ります(図10)。このラインは、富士山と孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳や天香久山などとつながるアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図10)。荘内神社と富士山を結ぶライン上に御神楽岳(新潟県東蒲原郡阿賀町)があります。蜂子皇子の伝承がある荘内神社が、聖徳太子ゆかりの橘寺と結びついていることは、蜂子皇子の父である崇峻天皇が厩戸皇子(聖徳太子)と推定されることと整合します。
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荘内神社の近くには神楽館跡や神楽という地名があります。蜂子皇子は、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、その美しさにひかれて、近くの海岸に上陸したといわれています。「蜂子」の「蜂」は、天津神の吉数の「八」と関係があると思われますが、アルテミスと融合した女神キュベレーの象徴である「蜂」と関係があるかもしれません。エフェソスで使われていた硬貨の片面には、アルテミスの象徴だった女王蜂が描かれているようです(世界七不思議)。
出羽三山神社のHPには、蜂子皇子は「能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた」とあり、能登半島の鉢ヶ崎(はちがさき)と由良海岸を結ぶラインは、彌彦神社と聖徳太子と関係があると推定される音羽古墳群とレイラインでつながっているクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図11)。鉢ヶ崎の近くには八ヶ山(八箇山、蜂子の山)があるので、蜂子皇子は鉢ヶ崎を出て由良の浦に着いたと思われます。彌彦神社とクサール・ヌアイラを結ぶラインの近くには、月布施 観音寺(新潟県佐渡市)があります(図11)。
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橘寺とハドソン湾を結ぶラインは、鉢ヶ崎と八ヶ山展望台の近くを通ります(図12)。このラインの近くには、太安萬侶の墓(奈良市)、長寿寺(滋賀県湖南市)、沙沙貴神社(近江八幡市)、荒神山神社(彦根市)、平泉寺白山神社(福井県勝山市)があります(図12)。
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小手子の子、蜂子皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の計らいで京を逃れ、山形県鶴岡市の出羽三山の開祖となったと伝えられますが、小手子も、蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びたといわれ、現在の福島県川俣町に落ち延びて養蚕を伝えたという「小手姫(おてひめ)伝説」があります。川俣町とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くに月山や羽黒山があります(図13)。小手子は、大伴糠手子の子とされていますが、このレイラインから小手子は百越(越人)と推定される大伴氏ではないと推定されます。
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厩戸皇子は崇峻天皇と推定されるので、蜂子皇子は、山背大兄王の兄弟と推定されます(図14)。
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山背大兄王の母は、刀自古郎女(図14)ではなく、物部布都姫(太媛)と思われますが、上宮王家関係略系図(出典:「敗者の日本史」宝島社新書)によると、山背大兄王の兄弟は、膳部菩岐々美郎女の子が、舂米女王を含め8人、刀自古郎女の子が山背大兄王を除き3人、橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)の子が男女2人です。小手子は、崇峻天皇との間に蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の一男一女を儲けたとされるので、小手子は橘大郎女で、蜂子皇子は白髪部王と推定され、小手子の父は尾張皇子と推定されます。小手子が蘇我馬子に密告したことが、崇峻天皇暗殺事件のきっかけとなったというのは創作と思われます。『上宮聖徳太子伝補闕記』によると、山背大兄王の変で殺された兄弟に白髪部王も含まれているようですが、蜂子皇子が白髪部王であることを隠すために、舂米女王と同様に意図的に記載されたと思われ、実際は生き延びたのではないかと思われます。清寧天皇も白髪だったといわれますが、白髪は強いストレスが原因だったのではないかと思われます。
白髪山(山形県東根市・宮城県仙台市青葉区境界)とメンフィス博物館を結ぶラインは、羽黒山の近くを通り、ラス・ダシャン山と白髪山を結ぶラインは、月山の近くを通ります(図15)。白髪山は、白髪部王(蜂子皇子と推定)と関係があると思われます。
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崇峻天皇の倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや)は現在の桜井市倉橋にあったと推定されていて、倉橋の北に下居神社(おりいじんじゃ)があります(奈良再発見 出羽三山と大和)。橘寺と下居神社を結ぶラインは、天目一箇命(加具土命と推定)を祀る天一神社(桜井市鹿路)とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図16)。このラインも、崇峻天皇が厩戸皇子(聖徳太子)と推定されることと整合します。
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下居神社と天一神社を結ぶラインの近くに崇峻天皇陵(奈良県桜井市倉橋)があり、このラインは、橘寺と室生龍穴神社(宇陀市室生)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図17)。明治年間までは、赤坂天王山古墳(桜井市倉橋)が崇峻天皇倉梯岡上陵とされていました(図17)。
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羽黒山には、下居社や蜂子皇子を祀る蜂子社があります。下居神社(桜井市)と蜂子社を結ぶラインは、月山とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図18、19)。蜂子皇子はみにくかったとされていますが、非公開となっている蜂子神社の御尊像はきれいな顔立をしているようで、実際は、父親の聖徳太子(厩戸皇子)に似ていたのではないかと思われます。
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大高山神社とアルテミス神殿を結ぶラインは、月山神社(山形県東村山郡中山町土橋)の近くを通ります(図20)。月山は、月の女神のアルテミスに由来するのではないかと思われます。エフェソスでは、キリスト教の時代には異教は禁止されていたことから、エフェソスに残るアルテミス像は、異教の女神としてつくられたのかもしれません。
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月山の9合目の仏生池から山頂までの間に「行者返し」(または行者戻し)という場所があり、出羽三山の開祖である能徐太子(蜂子皇子)が白髪の老翁に化け、役行者(役小角)を不浄の者が来るべきところではないといって押し戻したことに由来するそうです(月山の「行者返し」についてのお話【羽黒山小話】)。『日本霊異記』には、文武天皇の代に、葛城山の一言主大神が人に乗り移って、「役の優婆塞が陰謀を企て天皇を滅ぼそうとしてる」と告げ、役小角(役行者)が伊豆に流されたとあります。その後、朝廷の恩赦があって、701年には朝廷の近くに帰ることが許されたようです。文武天皇の夫人は、藤原不比等の長女の藤原宮子で、701年には唐の律令を参考にしたと考えられている「大宝律令」が完成しています。
文献
1)谷川彰英 2021 「日本列島 地名の謎を解く」 東京書籍