温故知新(27)天鳥船神(大鳥連祖神 須佐之男命) 珍敷塚古墳 角田遺跡 大鳥大社 菊田神社 氣多大社 スサ メンフィス プタハ シュメール
福岡県うきは市にある屋形古墳群のひとつ珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)は、6世紀後半につくられたとされる装飾古墳で、舳先に鳥が止まっているゴンドラ形の船の絵があります(写真1)。『旧約聖書』の創世記における「ノアの方舟」の物語にもありますが、『ギルガメシュ叙事詩』には、洪水の後、船から鳩、燕、大烏(おおがらす)を放しています1)。珍敷塚古墳の船の絵と同様な絵に、紀元前14世紀頃の第19王朝セン・ネジェムの墓の「ラーの太陽舟」(写真2)があります。
珍敷塚古墳とメンフィス博物館を結ぶラインは、弥生時代後期前半(紀元後1世紀)の伊都国の王墓と推定される井原鑓溝遺跡(いはらやりみぞ)の近くを通ります(図1)。
八咫烏(やたがらす)は、熊野本宮大社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる八咫烏は、導きの神として信仰され、また、太陽の化身ともされています。賀茂氏の系図では、鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているので、八咫烏は、須佐之男命と同神と推定され、『ギルガメシュ叙事詩』の大烏に由来するのかもしれません。
大阪府堺市西区鳳北町にある大鳥大社(おおとりたいしゃ)には、現在日本武尊と大鳥連祖神(おおとりのむらじおやがみ)が祀られています。一時期天照大神が祭神とされましたが、大鳥連が祖神を祀ったのが始まりと考えられています。大鳥大社とメンフィス博物館を結ぶラインの近くには、兵庫県加古川市にある八幡神社(厄除八幡宮)、素戔嗚尊・五十猛命を主祭神として祀る廣峯神社(兵庫県姫路市)、瀧神社(岡山県勝田郡奈義町)、サムハラ神社 奥の宮(岡山県津山市)、大山寺(鳥取県西伯郡大山町)、角田遺跡(米子市淀江町)があります。角田遺跡からは、鳥の羽をつけて舟をこぐ人物などの絵が描かれた壷が見つかっていて、近くには、孝霊天皇(須佐之男命と推定)と関係があると推定される妻木晩田遺跡があります(図2)。
須佐之男命はスサと関係があると推定されるので、大鳥大社とイランのスサ(フーゼスターン州Shush)を結ぶと、ラインの近くには、須佐之男命を祀る古宮神社(兵庫県たつの市)、磐長姫神社(兵庫県赤穂郡上郡町)、比婆山久米神社奥の宮(熊野神社)、須佐之男命を祀る熊野大社(島根県松江市八雲町)があります(図3)。これらのラインは、大鳥連の祖神が、須佐之男命(孝霊天皇)であることを示していると推定されます。
大鳥大社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、八幡神社(兵庫県加西市)、満願寺金剛院(加西市)、『播磨国風土記』の「はにおかの郷」波自加村の比定地と推定される福本遺跡(兵庫県神崎郡神河町)、大歳神社(兵庫県神崎郡神河町)、祇園神社(兵庫県神崎郡神河町)、須佐之男命を祀る意上奴(いぬがみ)神社(鳥取市)、白兎神社があります(図4)。福本遺跡は、須佐之男命(孝霊天皇)と関係があるかもしれません。
市杵島姫命を祀る大峰本宮 天河大辨財天社(奈良県吉野郡天川村坪内)の近くにある白姫龍王(奈良県吉野郡天川村北角)とオリンポス山を結ぶラインの近くに大鳥大社(大阪府堺市西区鳳北町)、摩耶山、八大龍王権現大野神社(鳥取県八頭郡若桜町大野)、若桜弁天 江嶋神社(鳥取県八頭郡若桜町三倉)があります(図5)。これは、大鳥連祖神と市杵島姫命や瓊瓊杵尊や大国主命との関係を示していると推定されます。
図2の大鳥大社とメンフィス博物館を結ぶラインは、須佐之男命と関係があると推定される熊山遺跡と八大龍王権現大野神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。
『新撰姓氏録』には大鳥氏は、中臣氏と同じく天児屋根命を祖先とすると伝えられていますが、大鳥大社の近くには土師町があり、大鳥大社と素鵞社(そがのやしろ)を結ぶラインの近くに土師神社(兵庫県たつの市)があるので、大鳥氏は土師氏と関係があると推定されます(図7)。ラインの近くにある須賀神社(兵庫県赤穂郡上郡町)に近い赤穂郡上郡町岩木には江戸時代に「大鳥」という地名があったようです。また、岡山県真庭市の應神天皇、大己貴神、素盞嗚命を祭神とする八幡神社や、熊野神社(島根県雲南市)がラインの近くにあります(図7)。
千葉県船橋市の意富比神社(船橋大神宮)は、本殿の屋根の千木は内削ぎで、鰹木は偶数(6本)なので女神を祀っていると考えられ、須佐之男命の妃の大日孁貴(おおひるめのむち・天照大御神)を祀っていると推定されます(写真3)。意富比神社神門と天鳥船命(鳥石楠船命)を祀る茨城県城里町の石船神社を結ぶラインは、意富比神社の本殿を通ります(図8)。香取神宮の本殿も石船神社(城里町)の方向を背にしているので、城里町の石船神社は関東地方で古くから信仰されていたと考えられます。
意富比神社の境内にある大鳥神社は、千木が外削ぎで鰹木が奇数(5本)なので男神が祀られていると考えられ、祭神は日本武尊とされていますが、鳥居の前には、石船神社の船形石に似た石が置かれています(写真4)。
大鳥神社は、意富比神社の本殿とはほぼ直角の向きになっていて、拝む方向には、習志野の守護神菊田神社があります(図9)。菊田神社は、元は久久田大明神と称しましたが、久久田大明神は、兵庫県豊岡市の久久比神社に祀られている木の神「久久能智神」(胸形(宗像)大明神)で、須佐之男命と推定されます。市川市の下総国総鎮守 葛飾八幡宮と習志野市の菊田神社を結ぶラインの近くには、山野浅間神社(船橋市)、海神(船橋市)、意富比神社(船橋大神宮)があります(図9)。
菊田神社とスサを結ぶラインは、図9のラインとほぼ重なります(図10)。ラインの近くには、西新井大師 總持寺(足立区)、大日如来の聖地として知られる大日岳、能登国一宮 氣多大社(石川県羽咋市)があります(図10、11)。氣多大社の祭神は大己貴命ですが、「入らずの森」内に鎮座する奥宮には、素盞鳴尊と奇稲田姫命が祀られています。菊田神社の「菊田」は、氣多大社の「氣多」に由来するのかもしれません。
熊山遺跡とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、須佐之男命を祀る日本初之宮の須我神社(島根県雲南市)や岩船神社(島根県松江市)の近くを通ります(図12)。岩船神社は、天鳥船神が岩船にのって当地に降臨したと伝えられる場所なので、天鳥船神(鳥之石楠船神)は、須佐之男命であることを示していると推定されます。『日本書紀』の葦原中国平定の段では、『古事記』の「天鳥船神」の代わりに「稲背脛」が事代主に派遣されていますが、稲背脛は「熊野諸手船、またの名を天[合+鳥]船」という船に乗っていったとされます。
兵庫県尼崎市にある鳥之磐楠船命を祀る船詰神社(ふなづめじんじゃ)は、箸墓古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くにあり、このラインの近くには白兎神社があります(図13)。これは、須佐之男命(孝霊天皇)と卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)や大国主命との関係を示していると推定されます。
チャタル・ヒュユクとエチオピアの最高峰ラス・ダシャン山を結ぶラインは、メンフィス博物館とスサを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図14)。チャタル・ヒュユクとラス・ダシャン山を結ぶラインの近くには、キプロス島のフェニキア時代より商港があったキレニア(ケリネイア)や、シンの荒野(Widerness of Sin 罪の荒野)の近くを通ります(図14)。罪の荒野は、聖書にあるイスラエル人が出エジプトの旅の間にさまよった場所の一つで、ヤハウェが彼らに豊富なマナとウズラを提供した場所です。初期のイスラエル人は多神教で、エル、アシェラ、バアルなど、さまざまなカナン人の神々や女神と一緒にヤハウェを崇拝していました(Wikipediaヤハウェ)。
メンフィスの近くにあるジェセル王のピラミッドと熊山遺跡を結ぶラインは、カナンを通ります。旧約聖書に、主要な異教の神としてアシュトレトの名で登場する、地中海世界各地で広く崇められた豊穣多産の女神アスタルトは、カナンなどでも崇められました。エジプト神話では、戦車に乗り、盾と槍などで武装し、二枚の羽で飾った上エジプト冠を被った女戦士の姿で表されます。系譜としてはプタハの娘とされ、特にプタハの聖地メンフィスで崇められました。須佐之男命がプタハに例えられたとすると、卑弥呼(豊玉姫命)はアスタルトに例えられたのかもしれません。プタハの神像は、太くて立派なつけひげをし、シュメールの神官像と似ています3)。鍛治などの職人の守護神で他の神はプタハ神に内在していると考えられ、オシリスとも結びついたようです。
テーベの市神で、中央王国時代テーベが首都となり国家神となったアメンは、太陽神で、聖獣は雄牛、及びガチョウの2枚羽と太陽円盤のついた冠を被ります。須佐之男命は天津神で、鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)と推定されるので、図2のレイラインの近くにある角田遺跡から出土した土器の頭に羽を着けた人物は、ガチョウの羽を着けたオシリスやアメンと関係があるのかもしれません。「ガチョウ」は、雁(カリ)の仲間の家禽で、カモ目カモ科ガン亜科の鳥ですが、「鴨」は、カモ目カモ科の鳥類のうち、雁に比べて体が小さく首があまり長くないものの総称です。
「雄鴨」は、英語で「drake」ですが、ドレイク(drake)は、dragon(龍)の古い形で4)、ファイヤードレイクは、ケルト人などの伝承に登場するドラゴン(もしくは蛇)の一種です。イングランドのリンカンシャー州アニクにあるドレーク・ストーン・クローズと呼ばれる場所が、宝を守るドラゴンの棲みかで、元の伝説は地面からクワックワッと鳴くカモが現れたという話に変化しているようです4)。須佐之男命は、龍神でもあると推定されるので、ドレイクの「龍」が「鴨」に変わったのかもしれません。鳥は恐竜から進化し、太古の南極大陸には羽毛恐竜がいたことがわかっていますが、もしかすると、鴨と恐竜の鳴き声が似ていることを知っていたのかもしれません。ヨークシャー州のウォントリーの竜の伝説では、モアが美しい乙女を妻にすることを条件にドラゴン退治をしていますが、ドラドンの弱点である肛門を刀の付いた武具で蹴って殺しています4)。『古事記』の小碓命の西征の段で、熊襲の弟建の尻を剣で刺し殺しているのは、弟建が龍神の系統であることを暗示していると思われます。
おのころ島神社とメンフィス博物館を結ぶラインは、須佐之男命を祀る須佐神社(島根県出雲市)の近くを通ります。おのころ島神社と幣立神宮を結ぶライン上には、徳島県阿波市や大分県津久見市があり、天満神社(津久見市)の近くを通ります(図15)。おのころ島神社とメンフィス博物館を結ぶラインと直角になるように幣立神宮からラインを引くと加茂岩倉遺跡があります(図15)。加茂岩倉遺跡は、須佐之男命と関係があると推定されます。
Amenは、ヘブライ語で「本当に」という意味があり、もしかすると須佐之男命を祀る真宮神社(しんみやじんじゃ)の名前と関係があるかもしれません。ウルクの伝説的な王であるギルガメシュの物語である『ギルガメシュ叙事詩』はシュメールのみならず周辺諸民族にも翻訳され伝えられたとされます。豊饒の象徴である雄ヒツジがアメン信仰を象徴する動物として見られたのは、シュメール語の「羊」が「太陽十字」であることと関係があるかもしれません。
朝比奈宏幸氏は、アイヌ神話の、死んだ両親に会いに黄泉の国へ行った少女の物語を著書で紹介しています5)。黄泉の国の悪魔に気づかれて大勢に追いかけられ、入口に石を置いて阻止したという行為が日本神話と同じですが、アイヌ神話では、死後の世界と現世で使用していた道具等を死後の世界に持ち込むことができるとされたことなどが、古代エジプトの生死観と同じであることを指摘しています5)。グラハム・ハンコックは、古代ギリシャ神話のオルフェウスの物語と似た神話が、先コロンブス期の北米における古代文化に見られ、魂が死後に旅をし、精神と物質の二元性があるという点は、古代エジプトと古代ミシシッピ川流域の宗教に共通することを述べています6)。
日本列島やチベット高原で高頻度に観察されるY染色体ハプログループD系統は、東アジアにおける最古層のタイプと想定されています。ユダヤ人のハプログループE系統は、D系統と同じくハプログループDE系統から約7.3万年前に発生したとされています。東アジア及び東南アジアにO系統が広く流入したため、島国日本や山岳チベットにのみD系統が残ったと考えられています。Y染色体ハプログループ(父系)やミトコンドリアDNA(母系)の情報を基に、人類の共通祖先の発祥地から全世界への拡散ルートを特定するジェノグラフィック・プロジェクトによると7)、縄文系のC系統とD系統は、同様な海洋ルートで日本に来たようで、東北地方や北海道にみられるD系統は、中国北東部にも見られるようです。
宝来聰氏が、胎盤を用いて静岡県三島の日本人の母親に由来するミトコンドリアDNAを分析した結果、大きく2つのグループに分類され、少数の日本人グループは、多数の日本人グループがヨーロッパ人と分かれる前の12万5千年前に、アフリカ人から分かれたと推定されています8)。ミトコンドリアの古い系統は東北地方に比較的多いようなので、染色体ハプログループD系統と元は同じ民族だったのかもしれません。
1997年に、エチオピアで発見されたホモ・サピエンスの頭骨化石は、その後の研究で16万年前と測定され、2003年のネイチャー誌で公表されました。サハラ以南のアフリカ人を除く、アジア人とヨーロッパ人にはおよそ2.5%程度のネアンデルタール人のDNAが混入していることがわかっています9)。コーカサスやレバント(中東)、北イランなどには、ネアンデルタール人と交雑しなかったホモ・サピエンスの集団が存在するようです9)。もしかしたら、古王国時代のエジプト人の祖先は、ネアンデルタール人などの旧人との争いや交雑もなかったのかもしれません。
紀元前4,000年にまで遡る神殿跡が発掘されているスサ(スーサ)と紀元前2,500年ごろにフェニキア人の都市として成立したティルス(現在のスール)を結ぶラインの近くに、紀元前575年に新バビロニアのネブカドネザル2世により建設されたイシュタル門があります(図16)。
イシュタル門の通路の両壁には、ライオンの像を取り囲んで「王家の紋章」といわれる十六菊花紋が描かれていますが、岩田 明氏は、紀元前2300年頃のアッカド王朝のナラム・シン王の戦勝碑(写真5)に刻まれた十六菊花紋も「王家の紋章」と推定しています10)。
安政2年(1855年)に豊国三代の描いた「姿八景 姫垣の晩鐘 浦嶋の帰帆」の豊玉姫の衣装には、イシュタル門の十六菊花紋に似た模様が描かれています。江戸時代は、菊花紋の使用は自由とされていましたが、もしかすると、豊玉姫が須佐之男命(孝霊天皇)の娘であることは、一般に知られていたのかもしれません。
バグダードの南西約180キロの位置にあるニップル遺跡からは、粘土板に描かれた正確なニップルの市街地図が見つかっています。ニップルは、シュメールにおける嵐の神エンリル神崇拝の中心地でした。ここで発見されたギルガメシュ叙事詩の粘土板には、理想郷ディルムンが洪水で滅びる描写があります。シュメールの地図は東(日の昇る場所)向きに作られ、右方が南で左方が北になるようです12)。周の時代の朝鮮王朝が描いた地図などには、日本列島が九州を北にして逆立ちしている地図がありますが13)、『魏志』倭人伝で、邪馬台国が実際より南に位置することと関係があるとする説があります。
『旧約聖書』の最初に記されている「創世記」によるとノアの11代目がアブラハムで、アブラハムはメソポタミアの都市国家ウルで生まれ、母はシュメール人だったようです。『旧約聖書』によれば、カナン人の祖は、ノアの孫、ハムの子カナーンとされています。アララト山の南西にニムルド(カルフ 『旧約聖書』に登場するカラフ)という古代遺跡があります。『創世記』に登場するバビロンの王・ニムロド(ハムの孫)と関係があると推定されています。
ニムルド(カルフ Kalkhu)は、ニネヴェ(Nineveh Ninive)遺跡の南方にあります(図17)。紀元前7~8世紀に現在のイラクに実在していた古代アッシリアの首都ニネヴェの図書館の遺跡から発掘されたシュメールの粘土板には、ギルガメッシュ叙事詩などと共に、ニネヴェ定数と名付けられた195兆9552億という数が記されていましたが、モーリス・シャトランにより意味が解読されています。常識の範囲を超えているという点では、アンティキティラ島の機械に似ています。
メンフィスと熊野本宮大社を結ぶラインは、カナンを通り、ニネヴェとニムルド(Nimrud)の間を通り、素鵞社の裏手にある八雲山を通ります(図18)。これは、須佐之男命とシュメールの関係を示していると思われます。
シュメールの都市国家郡の南端に位置し、多くの寺院があるエリドゥは、シュメールの神話によると、神エンキ(後のアッカド神話における神エアに相当)により建設されたといわれ、紀元前4900年頃に建設されたとみられています。ウル第三王朝時代には巨大なジッグラトが建設され、バベルの塔のオリジナルとも推定されています。エリドゥで出土した水神エンキの神殿を守護する獅子像は、たてがみが渦巻文様で、唐草模様の被り物をした獅子舞の獅子に似ています(写真6)。
明治時代の楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)の浮世絵に描かれた豊玉姫も唐草模様のような柄の着物を着ています(写真7)。秩父今宮神社の龍上観音・龍神観音にも似ています。倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命と推定)が祀られている讃岐国一宮田村神社の社伝によると、奥殿の床下の深淵(御神体)には龍が棲むといわれています。
スサ(スーサ)とギリシャのアルゴスを結ぶラインの近くには、紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代の集落が確認されているバクダードがあります(図19)。また、スサとエジプトのアレクサンドリアを結ぶラインの近くにはエルサレムがあります(図19)。
ジェセル王の階段ピラミッドとアルゴスを結ぶラインの近くに、アレクサンドリア、クレタ島の古代都市ラトがあります(図20)。ラト(北緯35度10分)は、サムハラ神社奥の宮や那岐山(北緯35度10分)と同緯度にあります。オリンポス山とバールベックを結ぶラインの近くには、エフェソスに紀元前7世紀から紀元3世紀にかけて存在したアルテミス神殿やキレニア(ケリネイア)があります。バールベックはフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来するといわれます。エフェソスの周辺には、紀元前6千年前の新石器時代には人が住んでいて、発掘からは青銅器時代のミュケナイ文化に属する陶器が見つかっています。バールベックとジェゼル王のピラミッドを結ぶラインの近くに、スール(ティルス)があります(図20)。
ミノア人は、地中海人種と小アジア系人種の混血とされ、ヨーロッパの語源になったエウロペは、本来ミノア系の大地の女神だったと考えられています。エウロペは、ティルス(スール)の王女で、ゼウスは彼女を誘惑するために牡牛に変身しクレタ島に連れ去ったとされています。
ギルガメシュは、シュメール王名表によれば、ウルク第1王朝第5代の王として126年間在位しています。シュメールのギルガメシュ王の時代(紀元前2600年頃?)は、エジプト第3王朝のファラオのジェセル王の時代(在位:紀元前2668年~紀元前2649年)とほぼ重なります(図21)。シュメールの「スサの王」に例えられたと推定される須佐之男命が、古代エジプトのメンフィスと関係付けられ、熊山遺跡がジェセル王の階段ピラミッドと関係付けられていることは、メソポタミアとエジプトの年代的には整合します。
1920年代後半にイギリスの考古学者、レオナード・ウーリーはそれまでに発掘された中で最も豪華なメソポタミアの墓を発見し、その後の調査で、被葬者はウルが全盛期であった紀元前2600年頃のプアビ女王と判明しています。須佐之男命がナラム・シン王(紀元前2254頃~紀元前2218年頃)にも例えられたとすると、紀元前2154年にアッカド王朝が滅亡し、紀元前2083年にアッカド市がグティ人の王朝によって占領、破壊されたころ、中東を出たシュメール人の王族が、フェニキア人の船で縄文時代に日本に渡来したのかもしれません。彦島八幡宮境内にあるぺトログラフのうち、紀元前2000年ころのセム語系(シュメール、バビロニア文字)のペテログラフの年代ともほぼ一致します。
1969年6月12日読売新聞に、天竜川中流域の静岡県水窪町で、紀元前600年頃と推定される、文字が刻まれた石(水窪石)が発見されたと報じられています。解読の結果「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と書かれていることがわかったようです。バルーツとは、フェニキア民族の根拠地・シリア地方の自然神バールの女性形同一神で、フェニキアという名は民族の守護神・フェニックス(不死鳥)に由来し、ガシアンは鳥=主神という意味だそうです。
フェニキア人という名称は、ギリシア人が、交易などを目的に東から来た人々をこう呼んだといわれ、ヘロドトスは、『歴史』の序文で「フェニキア人は、いわゆる紅海からこちらの海に渡って来て、現在も彼らの住んでいる場所に定住するや、たちまち遠洋航海にのりだして、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を回ったがアルゴスにも来たという。」と書いています。レバノン杉(学名: Cedrus libani)は、マツ科ヒマラヤスギ属の針葉樹で、古代エジプトやメソポタミアのころから建材や船材に利用され、フェニキア人はこの木を伐ってガレー船建造や木材・樹脂輸出を行い、全地中海へと進出しました。アトランティスの人々や海上交易が盛んなイオニア系ギリシャ人が特に信仰していた海神ポセイドーンの聖樹が松であることと関係があると思われます。資源を木材に頼っていたシュメール人は、紀元前2000年頃、森林伐採によって起こった深刻な塩害に遭い、農作物の収穫が激減し、エラム人に侵略され滅んだといわれています。須佐之男命は木の神でもあり、日本中に木を植えたとされるのは、シュメールでの教訓があったためかもしれません。
岩田 明氏は、シュメールの王と王妃の像と、長野県や岐阜県などにある道祖神が似ていることなどから、シュメール人が船で日本に到達していたと推定しています10)。ブログ「日本人の起源:土器から紐解く民族移動の可能性、縄文人とシュメール人の関係」(LuckyOcean 木崎洋技術士事務所)でも、ヨーロッパで発見されている縄目文土器と日本の縄文土器は非常に似ていることなどから、民族移動の可能性を指摘しています。神武天皇が印綬を受けた年が『後漢書』にある建武中元二(57)年とすると、その間2000年程度あることになります。須佐之男命は、シュメール系の縄文人をルーツとする人々には、スサ(スーサ)の王の生まれ変わりと信じられたのではないかと思われます。
ギョベクリ・テペの柱には、バックのようなものが彫られていて、メソポタミアの魚の格好をした「オアンネス」やメキシコのオルメカ文明のラ・ベンタ遺跡からみつかった「蛇の中の男(ケツァルコアトル)」の持っているバックと似ています15)。「オアンネス」に似た古代メソポタミアとカナンで信仰された豊穣神ダゴンや、岡山市立オリエント美術館にある「有翼鷲頭精霊像浮彫」(イラク・ニムルド出土、紀元前9世紀)も同じようにバックを持っています。
高野山と丹生都比売神社を結ぶ延長線上に、クレタ島の古代都市ラトがあるので、高野山はエーゲ文明と関係があったと思われます。そうすると、丹生都比売神社にある光明真言曼荼羅碑や高野山の御影堂に奉納されていた光明真言曼荼羅が、線文字Bの「丸に十字(太陽十字)」で表されている理由がわかります。エフェソスでは、アルテミスは下半身が魚(=知恵の神)だったようなので、弘法大師(空海)の幼名の「真魚(まお)」は、「知恵」を表しているのかもしれません。父は佐伯直田公(たきみ)、母の名は玉寄姫(玉依御前)とする伝承もあります16)。
スサ(スーサ)で生まれたとされるグリフィンは、クレタ島のクノッソス宮殿の「王座の間」にある壁画にも描かれ、鷲の頭、ライオンの体、蛇の尻尾を持ち、鷲は天空の神、ライオンは地上の神、蛇は地下・冥界の神を象徴するといわれています。龍(ドラゴン)もスサで生まれた合成獣の1種と考えられます。オアンネスは、メソポタミア時代初期の七賢人(アプカルル)で、人類に知恵をもたらした者であるとされています。アプカルル(Abgal(シュメール語)またはApkallu(アッカド語))という語は、「偉大な水の人」(Ab=水、Gal=偉大な、Lu=人)に由来するようです。「有翼鷲頭精霊」もアプカルルのようです(出典:メメント・モリ 西洋美術の謎と闇 http://mementmori-art.com/archives/38636794.html)。上半身が魚の「オアンネス」は海を支配し、「有翼鷲頭精霊」の鷲(わし)は空(天)を支配する賢人を表していると推定され、「空海」や「天海僧正」の名前とも関係があるかもしれません。ケツァルコアトルは、古くは水や農耕に関わる蛇神でしたが、後に文明一般を人類に授けた文化神と考られました。アプカルルやケツァルコアトルが持っているバックには、作物の種子などが入っていたのかもしれません。
文献
1)矢島文夫(訳) 1998 「ギルガメシュ叙事詩」 筑摩書房
2)小田富士雄(監) 2005 「別冊太陽 古代九州」 平凡社
3)松本 弥 2020 「図説古代エジプト誌 増補新版 古代エジプトの神々」 弥呂久
4)ジョイス・ハーグリーヴス 斎藤静代/訳 2009 「ドラゴン 神話の森の小さな歴史の物語」 創元社
5)朝比奈宏幸 2012 「古事記とアトランティス王国の真実」 ブックコム
6)グラハム・ハンコック 大地舜・榊原美奈子/訳 2020 「人類前史(下)失われた文明の鍵はアメリカ大陸にあった」 双葉社
7)長浜浩明 2021 「日本人の祖先は縄文人だった」 展転社
8)宝来 聰 1997 「DNA人類進化学」 岩波書店
9)篠田謙一 2022 「人類の起源」 中公新書
10)岩田 明 2004 「消えたシュメール王朝と古代日本の謎」 学習研究社
11)小林登志子 2020 「古代メソポタミア全史」 中公新書
12)ウィリアム・W・ハロー 岡田明子(訳) 2015 「起源 古代オリエント文明:西欧近代生活の背景」 青灯社
13)飛鳥昭雄(プロデュース)、大宜見猛(著) 2014 「沈んだ大陸 スンダランドからオキナワへ」 ヒカルランド
14)岡田明子、小林登志子 2008 「シュメル神話の世界」 中公新書
15)グラハム・ハンコック 大地 舜/訳 2016 「神々の魔術(上)」 角川書店
16)山折哲雄(編) 2022 「空海に秘められた古寺の謎」 ウェッジ