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猿渡哲也『エイハブ』 猿渡流白鯨! 神に挑んだ男の物語 

 タフシリーズなど、バイオレンスアクションの大ベテランである猿渡哲也が、あのメルヴィルの『白鯨』に挑んだ異色作――巨大な白鯨・モビーディックに仲間と自らの右足を奪われ、復讐鬼と化した男・エイハブの戦いであります。

 十九世紀初頭、マッコウ鯨漁の最中に、通常の鯨の何倍もの巨体を持つ白鯨の襲撃によって船を沈められ、その牙で多くの仲間たちと、自らの右足を食らわれた航海士エイハブ。親友とただ二人漂流することとなった果てにただ一人生き残った彼は、白鯨への激しい復讐心によって地獄から立ち上がり、再び海に向かいます。
 そして二十年後――捕鯨船の船員を志望するイシュメール少年は、このエイハブ船長の捕鯨船ピークォッド号の乗組員として海に出ることになります。様々な人種が集まるピークォッド号の乗組員たちを束ねるエイハブ船長の目的はただ一つ、憎き白鯨を斃すこと。そしてそのエイハブの執念に応えるように、ついに白鯨がその姿を現すのですが……

 と、イシュメールが少年になっているほか、想像以上に原作を踏まえて展開していく本作(イシュメールが少年なのは、鯨や捕鯨、捕鯨船に関する基礎知識を作中で描くための聞き手役とするためなのでしょう)。
 もちろん長大で重厚、そしてしばしば脇道に逸れることで知られる原作を忠実に、しかも単行本一巻で漫画化するのはさすがに難しいものがあります。その意味では、本作は必然的に原作の大幅なダイジェストとならざるを得ません。しかし様々な要素を大幅に削ぎ落とし、物語の後半ほぼ全てをエイハブと白鯨との戦いに費やすことによって、本作はストーリーを研ぎ澄まし、むしろこの分量で描かれるのが最適と思わせる内容となっているのには驚かされます。
(個性的な乗組員達を、決して登場ページ数の多くない中で印象的に描き、そしてあっさりとその命を散らしていく無常/無情な描写も巧みです)
 そしてそれを支えているのは、何といっても白鯨の強烈な存在感と、それを描き出す画の力でしょう。元々画力に関しては定評のある作者ですが、設定だけみればどう考えても怪獣としか思えない白鯨を、誤魔化しなしで真っ正面から描いてみせたその姿は、まさに圧巻というほかありません。船を叩き潰し噛み砕く白鯨はもちろんのこと、普通のマッコウ鯨でも恐るべき存在として感じられるその描写力たるや……

 しかしその白鯨に負けない存在感を放つのが、タイトルロールのエイハブであります。原作以来、これまでも様々な形で描かれてきた――そしてそのほとんどで、狂気に満ちた執念の人として描かれてきた――彼の持つ様々な貌を本作は余すところなく描き出します。もちろんそのほとんどは、やはり狂気の復讐者のそれではあります。しかし彼が希に見せるそれと異なる表情は、彼が自ら名乗るように「悪魔」ではなく、あくまでも「人間」であると――実に人間でありすぎたからこそのこの執念であると、理解できるのです。
 本作は、そんな「人間」が「神」の如き白鯨に挑む物語であります。だからこそ本作は『白鯨』ではなく、神と敵対した王・アハブ(英語読みでエイハブ)の名を持つ『エイハブ』の題を冠してみせたのでしょう。

 ――と真面目に感心していたところで、全五話の第四話というクライマックスのラスト二コマで、いきなり猿渡ワールド全開になってしまうのが、本作の恐ろしいところであります。義足という時点でいやな予感がしたものの、まさかやらないだろうと思っていた、エイハブがメ○○○トを装着するという展開になるとは、一体誰が予想できたでしょうか!?
 というサプライズはあったものの、物語自体は破綻なくおさまるべきところに収まっている――原作とは全く異なるエイハブと白鯨の決着は、これはこれで実に外連味があってよろしい――のもまた、凄まじいところではあります。(ラストの現代シーンは、まあこれはこれで)

 猿渡哲也が『白鯨』を描くというのは、話を聞いたときは正直なところ異次元の組み合わせだと思いましたが――いやはや、ここまで魅せてくれると思わなかった、というのが正直なところです。いずれまた、こうした名作の漫画化を――と期待してしまいたくなる作品であります。


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