【note】記事を書く理由は「脳のデトックス」と「記憶容量拡張」のためだった
note記事は何のために書いているのだろうか?
前に別記事で、自分がnote記事を書いているモティベーションについて綴ったことがある。
確かに、外面的なモティベーションはこのとおりである。人になぜnote記事を書いているのかを問われたら、このように答えるだろう。
しかし一方で視点を変えて考えてみれば、人間は脳を使って情報処理する機械のような存在でもある。
人間をそのような情報処理装置の一種であると捉え直した場合には、別の理由が見えてくるかもしれない。
この記事では、脳機能の観点からnote記事を書く理由あるいは書いてしまう理由について考えてみたい。
脳のPCモデル図
人間の脳の仕組みについては、現代科学でもよくわかっていない部分が多いようだ。
ミクロ的な視点で見れば、ニューロンと呼ばれる脳の神経細胞は860億個とも言われており、ニューロン同士が互いにシナプスという多数の手で接続し合い情報ネットワークを形成しているらしい。
ニューロン同士の接続強弱を学習によりフィードバックして調整することでパターン認識することが可能となる仕組みが脳には存在するようだ。
ここで言うパターンとは単に画像パターンに限定されたものではなく、文章の中の単語と単語との繋がり具合を含む広義でのパターンを意味している。
近頃流行りのAIはこれを電子的に模して仮想空間で再現したものであるが、それは脳機能のほんの一部分を再現したに過ぎず、人工知能と呼ぶにはあまりにも貧弱な代物である。
我々は脳を用いてどのように考えてどのように意思決定しているのか誰も知らない。
要するに、脳の仕組みなど未だよくわかっていないのだ。
従って脳機能の正確なモデルなどは示しようがないのだが、わかりやすい説明として昔からよく使われているのは、脳のPCモデル図を用いた説明である。
ここでは、脳のPCモデル図を用いることで、note記事を書く時の脳の働きについて考えてみることにする。
脳の中枢機能は、演算装置と内部記憶装置である。
演算装置は文字通りデータを演算する場所だ。演算とはPCで例えると四則演算や比較などデータを加工する行為を意味する。入出力を含むデータの移動も演算装置が全てコントロールしている。
演算装置は脳機能の心臓部分とも言える。
内部記憶装置はデータ加工の作業場である。PCでは加工前のデータや加工後のデータに加えて、それらをコントロールするプログラムも全て内部記憶装置に置かれる。プログラムは、外部記憶装置から呼び出され一旦内部記憶装置に置かれてから実行されるのだ。
外部記憶装置は脳機能においては、生まれてから今日まで学習によって蓄積してきた全知識が保存されている場所である。データ加工する作業においては、外部記憶装置から必要な知識が内部記憶装置に呼び出されて利用される。
note記事を書くときの情報の流れは次のとおりである。
まず、トリガーとなる何らかの外部情報が入力装置を通して内部記憶装置にインプットされる。外部情報とは、本、note記事、ニュースあるいは人との会話などの情報である。
このインプット情報は極めて重要である。なぜならば、情報処理装置としての人間は、何らかのインプットが無ければアウトプットもできない存在だからだ。
内部記憶装置に入ってきた外部情報は、演算装置で処理される。その際、過去のエピソード記憶や知識など必要な情報が外部記憶装置から内部記憶装置に呼び出され、演算装置での処理に利用される。
ここで面白い記事が書けそうだと判断されれば、外部記憶装置に保管された膨大な知識を参照しながら内部記憶装置上で記事が綴られていくことになる。
完成した記事はnote記事として出力装置を通してアウトプットされる。同時に、記事のエッセンスは脳内に存在する外部記憶装置に整理して保管される。
ここまでが、note記事を書くときの情報の基本的な流れである。
脳のデトックス
ここで改めて、「我々はなぜ記事を書くのか?あるいはなぜ記事を書いてしまうのか?」その疑問に立ち返ってみる。
もし我々が頭の中で考えたことをアウトプットしなかったら、どうなってしまうだろうか?
その場合、内部記憶装置に呼び出され演算装置で処理・加工されたデータは行き場所を失ってしまう。
出口を失ったそれらのデータは、永遠に脳内に留まり、グルグルと渦巻きのように回り続けることだろう。
つまり、1つの考えが頭に中を支配して離れなくなる。
この状態を指して人は「悩みを抱えている」というのではないだろうか?
この状態が長く続けば、そのうち精神を病んでまうかもしれない。
だから、我々はnote記事をアウトプットするのだ。いや、アウトプットせざるを得ないのだ。
データをアウトプットすることで脳内の内部記憶装置は一旦リセットされ、空っぽになる。
空き容量が発生することで、また外部情報を受け入れることが可能となる。受け入れた外部情報を加工してまたアウトプットする。
情報処理装置としての人間は、これを永遠に繰り返してながら生きているのだ。
アウトプットすると心の中がスッキリするが、それはこのようなメカニズムが働いているからだ。
我々がnote記事をアウトプットするのは、脳のデトックスのためと言っても過言ではないかもしれない。
note記事を書くのはアウトプットの1つの手段ではあるが、アウトプットはnote記事だけとは限らない。
日記を書く、あるいは友達と喋って情報を吐き出してしまうのも同じ効果があるかもしれない。
ただ、自分にはnote記事を書くのが一番合っているように思える。
それは、note記事を書くもう1つの理由が関係している。
記憶容量の拡張
我々がnote記事を書くもう1つの理由は、記憶容量の拡張のためだ。
脳のPCモデル図によれば、我々の知識やエピソード記憶は脳内の外部記憶装置に保管されれている。
しかし、PCとは異なり、生体で出来ている我々の外部記憶装置は、内容が移ろい易い性質がある。古い記憶はぼんやりとしてくるし、意識の奥底に仕舞われてしまった記憶を引き出すのは容易ではない。
それに対して、出力装置を通してアウトプットされたnote記事は、明確なロジックを伴って電脳空間に存在し続け、いつでも入力装置を通じて脳内にインプットし直すことが可能だ。
これは言い換えると、我々の頭の外側に新たな記憶容量を拡張したのと同じ意味合いになる。
しかも、この頭の外側に新たに拡張された記憶容量は、劣化することなく記憶され、ネットワークで多くの人と繋がっている。
そのため電脳空間に格納されたnote記事は、自分だけではなく多くの人々にアクセスされる。新たに拡張された記憶容量は集合知を形作る基盤ともなっているのだ。
従来の情報伝達手段であった書籍も同様の機能を持つが、電脳空間に格納されたnote記事は、より高速により広範に人々に共有される。
このようにnote記事を書くことで、生体としての限界を超えて頭の外側に新たに拡張された共有の記憶容量を持つことができるのだ。
記事紹介
この記事では、脳機能の観点から書く理由あるいは書いてしまう理由について考えてみた。
その結果、note記事を書く理由は脳のデトックスと記憶容量拡張のためであることがわかった。
こんなことを考えたのは、最近、高草木陽介さんの 「【わが思考、すべてnoteにあり】感想:『思考の整理学』外山 滋比古」という記事を読んだのがきっかけだ。
この記事は、外山 滋比古著『思考の整理学』の読書感想文だ。
記事の中で一番共感できた部分は次の一節だ。
この記述が、note記事を書く理由について様々考えるきっかけとなった。
※高草木陽介さん、記事を引用させていただき、ありがとうございました。
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