おバカな”賢人”の条件【きまぐれエッセイ】
データ肥やしにひと暴れするバカって、実はとってもヤバイんですよ。バカ一つとっても恐ろしいものですが、学問あるバカの方がより凶暴で手こずらされちゃうんです。なんでそんなこと言えるか?それはですね、争いの根っこが自分勝手な価値観にあるからなんです。善悪・優劣・損得を自分基準で決めつけちゃう。だからこそ争いが絶えないわけです。
例えば、日々の生活で役立つ知恵よりも、ただ単に頭に詰め込んだデータ量を重視する風潮。メモリーがデカい奴を賢い、すばらしい人間と持ち上げちゃう。するとみんな”俺は俺は”と言ってデータ量勝負に狂っちゃうわけですよ。世間ではこんな認識が当たり前になっているから、メモリー量が少ない人は自然とバカ扱いされちゃう。
でも、よーく考えてみれば、世間でいう”賢い人”って、メモリーデータがデカいだけのひとなんですからね。ほんとに単純な話なんです。だからメモリー量が少なくたって、バカ呼ばわりされる筋合いはないわけ。そもそも賢さの指標をメモリー量に求めるなんて、どう考えてもおかしいっすよ。
知識量で人を判断しなくなれば、心の葛藤や人間同士のイビリングも減るはずです。同じように物にも価値の格差をつけがち。お金は大切だけど、それに命をかけるのは行き過ぎでしょ?でも世の中がそうなってるから、金を手に入れようと人々は命がけの争いを繰り広げちゃう。盗んだり騙したりして金を手に入れようとする卑しい人間が後を絶たない理由です。
だから腹黒い奴らのゼニ稼ぎ商売の餌食にならないことです。マスコミが作り出す流行や空々しい世間体に惑わされちゃダメ。周りの常識がすべてじゃありません。無欲に生きていけば、何の問題もないんですからね。
一方で、民の暮らしを守る政治家諸君もそうあるべきです。民が無為自然に生きていても、政治がおかしなことやっちゃ不幸です。逆に政治がしっかりしていても、民がおかしなことしてたら同じく不幸。だから双方が無為自然でなくちゃいけないんです。
だから政治は、民が知識ひけらかしに走らないよう、道(タオ)の真理を説き民衆の目を正す必要があります。虚しい情報の氾濫で民を現れさせたりしてはダメ。民が自立できるよう支援することが重要です。政治も知識を誇る者を重用するようでは本末転倒。道を体現した者が政治をつかさどれば、民は決して不幸になりませんぞ。
[老子第三章:不尚賢]
常日頃から並々ならぬお心遣いをいただき感謝いたします。これからも変わらぬお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。