秋のお江戸で和に浸る 2024 #1 宝生能楽堂 - 華のおんなソロ旅
ようやく遅い夏休み。今年初めての東京泊で、和の伝統に浸ることにした。能楽、歌舞伎、そして初の大相撲観戦である。一日目は水道橋の宝生能楽堂で九月特別講演を鑑賞した。
昨年秋に初めて能を観たのは国立能楽堂であった。その時は一度鑑賞すればもうよいかな、と思っていたが、独特の世界観にはどこか惹かれるものがあった。今年の夏、薪能を観て、機会があればまた観たいと思うようになった。能楽は歌舞伎のように一か月同じ演目で通すということはないが、東京だけでも多くの能楽堂があり、能楽を観ようと思えばまずどこかでは可能なようだ。ちょうど私が行ける日はアクセス便利な宝生能楽堂で、しかも特別公演で3つの能を観られるとのこと。チケット発売初日にすぐ購入した。
宝生能楽堂は水道橋の駅を降りるともうすぐのところにある。13時開演の1時間前ほどに近くに来た。能楽鑑賞にあたって学習したことは、お腹をいっぱいにして観始めると絶対途中で寝てしまうので要注意ということで(笑)、近くの評判のよいカフェのランチも美味しそうだったのだが、ケーキセットで我慢した。ここのランチはとても量が多く、おそらく観客と思われるご年配の方々は全部食べられるのかしらん、とつい余計な心配をしてしまった。
屋内の能舞台はどこも造りは同じだけれど、見所(けんしょ・客席のこと)は若干違いがあるようだ。ここでは、脇正面(橋掛りのすぐ横の席)の奥に自由席があった。椅子は長時間座っていても苦にならない造りであった。
本日の演目はまず、能楽「実盛」で1時間40分。鑑賞の邪魔にならない1枚ものの説明パンフが無料配布されて便利。ツアーで片山津温泉に行った際、篠原古戦場の記念像でこの実盛のエピソードは知っていた。髪髭を黒くして戦に臨んだ実盛が討ち取られた首を洗われて白髪頭になり、恩人の首であったと木曽義仲が嘆いたという、いかにも日本人好みの話である。能楽は筋の予習をしていかないと、謡ではまず聞き取ることは難しい。断片的なキーワードで、ああ、あのあたりだな、と想像するところはまるで外国語である。ただ、なんとも心地よい感覚にやはりウトウトとしてしまったが、聞くところによると鑑賞の仕方としてそれはそれでよいのだそうだ。その点はクラシック音楽のフル・オーケストラの鑑賞の際に、音に身を任せながら日頃のよしなしごとを考えている、そんな感覚に近いものがある。
「実盛」のあとは引き続き狂言「鶏聟」(にわとりむこ)が25分。狂言師のよく響く声で眠気も吹き飛ぶ。能楽と狂言の対比はよく考えられていると思う。
休憩を挟んで次の演目は「砧」(きぬた)。世阿弥の傑作である。夫の帰国を待ちわびる妻が打つ「砧」の段がメインである。このようにストーリー性のある演目の方が興味深い。ただ、この日のシテ(主役)の方はご年配の方なのか、所作が心もとなく、立ち上がるときも不安げで、最後まで大丈夫なのかと気が気ではなかった。声にも張りがなく、面(おもて)をかけているとほとんど聞こえない。そうなると舞台に吸引力がなくなり、謡本(うたいぼん)などをめくる人が多くなる。この公演の観客はお弟子さんたちが多いのか、この謡本を持っている人が多かった。横の方のを覗いてみたが、アラビア文字を縦書きにしているようで、私にはなにがなんだか全くわからない(笑)。よく読めるものだ。
さらに休憩を挟んで最後の演目は能楽「石橋」(しゃっきょう)。歌舞伎の「連獅子」のもとになったもののはずだが、アレ? 台は2台、牡丹の木は2本だけ。獅子も紅いのが一匹だけ。私が予習したのでは紅白のはずなんだが、簡略版もあるのね。獅子の動きは敏捷でかわいかった。特筆すべきは囃子の大鼓の音が惚れ惚れするほど素晴らしかったことで、私のような初心者でも十分わかった。比較的若い方のようで、前の演目のときとは全然違っていた。演者の世代も大事なのだなと思った。
18時15分に終了。さすがに5時間は長い。観客は私でも若いと言われそうなほどの高い年齢層で、能楽の伝統芸能としての行く末を考えさせられないでもなかった。私自身はこの静謐な世界観が気に入ったので、また機会をみつけて今度は別の能楽堂に行ってみたい。
明日は歌舞伎座で、秀山祭九月大歌舞伎です。