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能と狂言を見て

古典を見る際に大切にしていることがある。それは予習しないことである。つまり、そのものをそれ自体として考えることを常に大切にしている。これは、本や映画のような作品を見る際にも考えである。
なぜ、日本古典を見るのか。それは、ただの興味で止まらない知的好奇心ないしは、今までの日本の地で生まれ育ってきた人たちへの恩返しである。古き良きものから、新しいものが生まれるのは芸術に留まらず、歴史、国家、政治、社会通念、風俗、文化、自然。そこには、淘汰と革新という形式がある。だから、現代人の我々は、古典に嗜むとともに温故知新を念頭に置かなければならない。
なぜ、能を見に行ったのか。それは二つの要因がある。一つは、三島由紀夫の近代能楽集を読んでいる時に近々行こうと思っていたと共に、Youtubeを見ていて、偶然にも、新作能のアマビエの動画に辿り着いたためである。この二つは、私の新しい世界を体験させてくれたし、時間を忘れさせてくれた素晴らしき芸術である。
前述の通り、予習を為さなかったので、私は、席に座り二部構成の狂言と能を楽しんだ。
狂言は入間川と言われる作品であった。
初見にしては、なかなか面白く、入間川で行われる言葉遊びである。しかし、古い言い回しであるため、予想するのが楽しかった共に、その予想が外れて、ついつい笑ってしまったのが味わい深い。
次に、玄象と言われる能は、終始何を行なっているかがわからないが、小鼓と大鼓に合わせて、歌っていると、霊が出てくる。これを祭り上げて奉納すると、帰ってゆく。
そして終わりかと思いきや、笛と鼓と太鼓に合わせて、再三、演奏を行うや否や純白な装いと頭に龍が鎮座している獅子舞が駆けてくる。私は、ズタズタと会場に響き渡る大仰な歩き方が歌舞伎同様にとても好きなのだ。
そして、舞と共に霊は去ってゆく。
一通りの感想を述べたが、純白な装いを成したあの絢爛な光景に私は恍惚としてしまった。こんなにも美しいものを見たことがあるか、と回顧した。一つのあるものが想起された。それは、ねぷた祭りで光輝燦然としながら、回転する扇であった。それらは、音楽と姿が調和を成していて、絶対的なものとしての確立していた。
芸術とは、芸術そのもので理解しなければならない。なぜなら、なんでも言葉で表現するのは、音楽や芸能の役割ではないし、それらは、感性で解釈しなければならない、それが芸術に対する答えなのだ。

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