古代の謎・太陽の道34度32分線…大和開発の基準線 そして上ッ道、中ッ道、下ッ道が描かれた!
地域の開発を始める時には、まず開発地域に『基準線』を設けなけらば秩序だった開発は覚束ない。基準線を下に地域開発の図面が描かれる。
奈良に見える『上ッ道、中ッ道、下ッ道』は、『太陽の道・北緯34度32分の基準線』に垂直に描かれた、ほぼ等間隔の南北のラインである。当時の王宮は『君子南面』と言われるように、南北方向を正確に知ることは極めて重要だったのである。(図は、「平城京 古代の都市計画と建築」(草思社)より)。
その結果、藤原京や平城京に見られるように、東西・南北の碁盤状に宮都が区切られて都が造営されています。
まず、飛鳥・奈良時代には、この『絶対的基準』になり、再現性があるのは、春分・秋分の太陽軌道(地面への軌跡)だけだったのです。例えば、北極星なども移動があったようで基準にはなり得ないかった訳です。
古代人も天文観測は得意だったようです。
天武天皇の御代には、天文観測所も建設され、陰陽寮も設置されていますから、飛鳥・奈良時代には天文観測は国家にとっても重要なものっだたのです。天武天皇の建設した天文観測所は『新羅』に倣って造られました。下図は、7世紀前半に新羅・慶州に造られた『瞻望台(せんぼうだい)』を示したものです(「ローマ文化王国 新羅」由水常雄著 新潮社)。
なお陰陽寮には、天文博士がおかれ、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏や天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている。先に述べたように、飛鳥時代(7世紀後半)に天武天皇により設置され、明治になり(1869年)に時の陰陽頭、土御門晴雄が死去したのを機として翌年廃止された。実に長きにわたり存在していたのです。
さて、話題を三本の道に移します。
『三国史記』「新羅本紀」の記述によれば、新羅人は「始祖から真徳王までを【上代】」、「武烈王から恵恭王までを【中代】」、「宣徳王から敬順王までを【下代】」と読んでいた。
丁度、上記の天武天皇時代でもあることは、三本の道建設とそれらの呼び名が一致しています。
★上ッ道は、飛鳥の人々が北に上り、飛鳥寺を現・元興寺に移築
★中ッ道は、百済系の人達が北に上り大安寺(移築されたもの)
★下ッ道はまさに新興勢力・藤原氏が薬師寺を藤原京から移築
というように、上代(飛鳥時代)、中代(聖徳太子時代)、下代(藤原時代)と時代の流れに従っており、新羅の呼称とも合致している。
さて太陽の道には、古代の主要な遺跡が残されています。大神神社、箸墓古墳、藤原京跡、伊勢斎宮などなど数多くの遺跡・史蹟が挙げられています。これが北緯34度32分のラインが謎と言われている由縁です。
でも現代の私達が何かを造ろうとすれば、考えることは同じです。
すでに述べたように、何かを建設しようとすれば、基準線が出発点になるのは当然なのです。闇雲に位置も方角も分からないで建設することなどあり得ないのです。
壬申の乱後に即位した天武天皇は、唐との関係をほぼ絶ち、新羅との交流が盛んに行われていました。交流と言っても新羅から日本に派遣される人数が圧倒的に多く、新羅文化や技術の導入が盛んになっていたと想像されます。
では、どのようにしてこの『北緯34度32分線・太陽の道』が作られたのかは次稿で解説します。
その中で、基準線の描き方によって、各遺跡・史蹟の造営された時間的な順序を見ることが出来るのです。