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5-3. フォトドローイングというイニシエーション(通過儀礼) 【ユクスキュル / 大槻香奈考】

空の殻による「逆蛹化」は、ちいさく生まれ変わること とも言い換えることができます。

まだ四民平等という概念が無かった時代、身分にわかりやすい違いと名称があった時代。日本でも様々なイニシエーション(通過儀礼)が行われていました。

それは適齢期や必要な時期になると訪れるもので、その後のすこやかな成長を願うためのもの、成人としての洗礼を受けるためのもの、嫁入りして別の家の人間になるためのものなど、基本的には「生まれ変わること」を意味します。具体的には元服で髪を剃り落とすことであったり、幼名を廃して烏帽子(えぼし)名を付けたり、火の上を歩いて渡ることであったり、茶碗(器)を割ることであったり…、地域によっても様々です。

ただ、儀式を受けたからと言ってその瞬間から全く別人になれるような魔法は無くて、実際には儀式を受けてから徐々に自分の力で変化していく必要があります。だからこそ【通過】儀礼と呼ばれるのでしょう。しかし現代では、成人式は騒ぐためのイベントに化し、七五三では親が子どもを着せ替え人形のようにしている例も見られ(※子ども写真スタジオでバイトをしていた頃に実感しました)、儀式の形骸化は目に明らかです。

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全く無くなってしまうよりは、お祭り騒ぎとしてでも残っている方がはまだ可能性があるとは思うのですが、果たしてその可能性とは何なのか。今さら厳しく律された昔のような儀式に戻すのは難しいでしょうし、現代を生きる日本人に合う習わしにはなりにくいと思います。先の空の殻に引き続き、「ちょうどよさ」を探ってみる必要がありそうです。

ある本の中にこんな一節を見つけました。

儀式とは、カイヨワが言うように決まったものであることは確かだが、下手をすると形骸化してしまう。(…)「これからの儀式は、クリエイトする方が本当ではないか」というハットン氏(ブリストル大学教授)の言葉はなかなか興味深い。「宗教」あるいは「宗教的」と言っていいかどうかはないが、自分たちで新たなものを作り出していこうという姿勢に、大きな共感を覚えた。

しかし、ひとつだけ残念なところがある。クリエイト するといえば聞こえはいいのだが、それは下手をすると猿知恵になると思うのだが、どうだろう。

このことを考えるとき私は、芸術というもののすごさを思う。決まりきった宗教的儀式では、人間の心を絶対者(神)に届けることは非常に難しいが、芸術ならば、それが可能なのではないか。――『ケルト巡り(NHK出版)』より

「儀式をクリエイトする」、この言葉にとても惹かれました。人集めのイベント化ではなく、あくまで儀式をクリエイトするということ。そして芸術にはきっとそんな力があるのではないかという希望。まるで雲間から差す一条の光のように感じました。

この体験を踏まえて、改めて大槻さんの画集と向き合ってみました。気になったのは御曾祖母さまの写真へのドローイング作品です。

「写真シリーズは複製ではなく、1枚しかない生の写真を使用しているので緊張感がある。何かを断ち切るということ。そのぶん別のなにかを生み出していくこと。そしてそれを作品として別の人の手に手渡していくこと……。何かの儀式の一部のように扱われる作品たちである。」―― 61 | 空の家24 (2015) より

『空の家24』
引用元:https://twitter.com/KanaOhtsuki/status/812498497651896322?s=20

元々の内容や意味を断ち切り(しかし白紙にはせずに)別の何かを生み出す、これはまさしく「ちいさく生まれ変わること」そのもののように感じました。ゼロから生み出すのではなく、ある程度の枠組みを持ち続けたまま生まれ変わる。フォトドローイング作品は現代に生きる日本人にとってのイニシエーション的な姿を持ち合わせた作品と言えるのではないでしょうか。

発表が始まったのは2015年ですが、とても「いま」を感じる作品群だと思います。そして、フォトドローイングから放たれる「ちいさくとも、生まれ変われるよ」という希望は、現在の写真作品の主題である「ひかり」に通じています。それにより、過去のフォトドローイング作品たちのふたたびの羽化を見たような気持ちがするのです。

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