4-4. 「環世界」と「意味の場」との共通点 【ユクスキュル / 大槻香奈考】
続いてはユクスキュルの「環世界」、マルクス・ガブリエルの「意味の場」についての共通項を探っていこうと思います。
「環世界」という言葉を知ったのは今回が初めてでした。しかしながらどこか既視感を覚え、それは何かと考えてみたところ、マルクス・ガブリエルの提唱する「意味の場」の概念に近いと気づきました。マルクス・ガブリエルとは新しい実存主義の提唱者である現代の哲学者です。
では「意味の場」とは一体何なのか。ガブリエルの著作から文章を引用してみましょう。(※太字は私が個人的にマークしたものです)
ここで論証したいのは、意味の場こそが存在論的な基本単位であること、およそ何かが現れてくる場が意味の場であることです。存在するとはどのようなことかという問いにたいして、わたしの答えを先取りして言っておくと、こうなります。――何かが意味の場に現れているという状態、それが存在するということである、と。
(中略)
したがって、存在するとは、たんにごく一般的に世界のなかに現れていることではありません。世界をなすさまざまな領域のひとつのなかに現れていること、存在するとはそういうことです。
(中略)
1 およそ存在するいっさいの性質を備えた対象は存在しうるのか。
2 どの対象も、ほかのすべての対象から区別されるのか。
この二つの問いにたいする、わたしの答えは「否」です。ここから導き出されることになるのが、世界は存在しないという結論です。第一に、世界とは、いっさいの性質を備えた対象であるはずだからです。第二に、世界のなかでは、どの対象も、ほかのすべての対象から区別されるはずだからです。 ――『なぜ世界は存在しないのか』より
私なりの解釈で例を示すならば、「鉛筆」という対象は「絵を描く」「文字を書く」「ナイフで削る」などの意味の場には現れるものの、「調理をする」という意味の場には現れません(=存在しない)。その理論で考えると、「世界」は全ての対象が存在しうる「意味の場」を包括している対象であるという定義になるため、「世界は存在しない(すべての対象が等しく現れてくる条件を備えた意味の場は存在しない)」という結論に至るというわけです。
対象【が】見る環世界、対象【を】見る意味の場、という違いはありますが、考え方と結論(特に後者)はかなり近いように思います。それはユクスキュルのこの一節から推察することができます。
最遠平面はさまざまな形で視空間を遮断するとはいえ、最遠平面というものはつねに存在する。それゆえわれわれは、草地にすんでいる甲虫であろうと、チョウやガ、ハエ、カ、トンボであろうと、われわれのまわりの自然に生息するあらゆる動物は、それぞれのまわりに、閉じたシャボン玉のようなものを持っていると想像していいだろう。
ここで示されている「閉じたシャボン玉のようなもの」が、意味の場ととても親和性が高いように感じました。「閉じている」ということは限界がある、ということです。なによりも、ガブリエルの結論である「世界は存在しない」に共鳴するのが、ユクスキュルによる次の一節です。
主体から独立した空間というものはけっしてない。それにもかかわらず、すべてを包括する世界空間というフィクションにこだわるとすれば、それはただこの言い古された譬たとえ話を使ったほうが互いに話が通じやすいからにほかならない。
生物たちはそれぞれに環世界を持っています。しかしすべての生物たちが同様に対象を捉えられるような環世界など存在しません。つまり、ユクスキュルとガブリエルの理論を総括するとこういった結論に至ると考えられます。
ここで注意すべきは、あらかじめ全体として一つに統一された世界それ自体があり、それを様々な生物種が解釈しているのではない、ということだ。そうではなく、【世界それ自体という想定がそもそも背理】であり、それぞれの生物種に固有な生の関心に応じて、存在は立ち現れる。この地点まで来て、ようやく物自体の観念が完全に解体されたことが分かるだろう。――――― 『新しい哲学の教科書(岩内章太郎)』より
ユクスキュルは「各生物ごとの見え方・速度の感じ方」に対する考え方においてはたしかにカント的(物自体ではなく現象を見ている)な思考から自身の理論を展開していきました。しかし「環世界」という発想は現代の実在論につながる部分を持っているとも考えられ、大変興味深く感じました。
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