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翳に沈く森の果て #12 雨

 龍胆(リンドウ)は食器を片付けて、テーブルを拭き、書棚から出したいろんな本たちをまた元の場所にひとつひとつ戻した。
 璃乃(アキノ)はその様子をぼんやりと見ていた。午後、といってもここには時計らしいものは見当たらない。考えてみるとここに来てからというもの、時間の感覚が全く掴めない璃乃だった。考えても無駄だろうということしか感じなかったので考えることをやめていたのを思い出し、龍胆に任せてればいいか、と全てを預けることにした。
 しばらくすると龍胆は「さ、出かけよう」といつの間にか腰に巻いていた黒いエプロンの紐を解いて戸棚の中にしまい璃乃にドアを出るよう促した。

 二人が鍵などないその山小屋の扉を出ると、階段下の脇にある草むらには昨日一緒にやって来た黒豹が横たわり、出てきた二人を見上げてゆっくりと立ち上がった。ぎょっとした璃乃をよそに龍胆は数段の階段を下りて、黒豹に「バクリおはよう、タマルリ、ウルリもおはよう、久しぶりだね 元気だった?」と一晩山小屋の外で休んでいた彼らに挨拶をしてにっこりと微笑んで深い草の中を歩いて行った。どうやら黒豹にはバクリという名前が、2羽のオオルリはタマルリ、ウルリという名前がついてるみたいだ。彼らは少し距離を空けて龍胆の後をついて行った。
 璃乃はその光景を後ろから眺めながらなんだか不思議な気持ちになった。どこなんだ、という不安は置いておいて、明るい朝ではないものの、また夜は明け森を包み込む薄い霧が含んでいる土と草木の香り、静謐の奥で飛び交う鳥達の澄んだ声があまりにも心地よかったので「ずっとここに住みたい」とさえ璃乃は感じていたのだった。少し置いて行かれた璃乃は、龍胆とバクリとタマルリ、ウルリたちの後を小走りで追った。

 黒豹のバクリを恐る恐る追い越して龍胆に追いついた璃乃は、「あのひとたち、名前があるんだね?」と聞いた。
 「ああ、そう、この森に住んでいるよ。ここはたくさんの動物や虫が住んでいるよ。璃乃は虫が苦手だったね。」二人は朝霧の森の中の道なき道を進んでいった。
 「うん。苦手だけど、ベランダとかにカナブンとかが飛んで来て、よく裏返ってたりすると何とかしていつも助けてはいるよ?このあいだも森に出かけて行った時はトンボが寄って来てびっくりしたけど、なんだか愛おしくなってきてたくさん写真撮ったりして。そういえばここに来てからアリが私の足を登ってきてたの気づかなくて噛まれたりしたけど、そういえば動じなくなってるかもしれないな・・なんだか友達みたいな感じがしてきたんだよね、不思議だけど」
「アハハ、でもわかるよ。実際僕たちもこの森に住んでいる同じ生き物に変わりはないもんね。生き物って、この森みたいなしくみの中で生かされているよね・・いつも考えてしまうんだよ。地球って、宇宙の塵が集まって、多くの衝突があって、重力が生まれて、大きくなって、熱を持って、冷やされて、大地が創造され、雨が降り始めて海を作り、植物も生まれ豊かな水が『循環』するという奇跡。それが何億年も続いているなんて不思議だよね。人間も動植物も、このサイクルのなかから出来上がったもの。だろう?多分、だけど。僕たちを含めて生き物の大部分もその水で満たされている。それらの一生は星の瞬きほどに短くて、宇宙の長い歴史のなかで見えないほどの宇宙のカケラにすぎない。そして尊いもの。なんで生まれて来たんだろうね。誰もが抱く疑問。だた生きているだけでありがたい気持ちになる一方で、どうして生きるのが辛くなったりするんだろうね。
 人間以外も辛いと思って生きたりしているのかな。
 人はより不幸な選択をして生きたいと思って生きたりはしないよね?たいていは幸せを求めて、より幸福を感じられるだろうと想像していつも選択をしているはずなんだよ。『こうあるべきだろう』という答えを導き出し続けいるのに、うまくいかない。いや、うまくいっているのかもしれない。でもうまく行かなかったら次はその失敗を改善していくものだろう?だからきっとフォーカスの多くが「失敗」やそれに対する「怖れ」なんじゃないかって考えたり。誰でも失敗だと感じるたびに疲弊するだろう?僕はずっと意見を纏めて総合的に正解を導き出して実行し、検証する、そんな仕事を担当してきたつもりだ。」龍胆は真っ直ぐ前を見ながら語った。
 「そうなんだね・・うん、確かに。」璃乃も当然いくらかは共感した。
 「私は好奇心が旺盛、というのか、気になるっていうことが多くていつも考え事をしている。そのなかでなぜだかわからないけれど、どうしてもやってみたいことを実際に体験してみたくなる。知りたいことが多い。ただ知りたいだけなんだよ・・子供だね。だからいろんなところに飛び込んで行ったりする。知らないかったことを知れるのが楽しいんだよ。だから初めてのことをよく学ぶ機会がある。だからよく知っている人から見ると子供にみえるよね。だからうまくできなくて謝ったり、怒られたり、馬鹿にされる。馬鹿にされてるな、って感じるのは辛いよね。人は結果を出せるかどうかで計られるものなのかな?そうだとすると自分は何もできない人間なのかな、って傷つくんだよね。でもいろんなことを経験したいっていう自分を嫌いにはなれないし、限られた世界だけを見て生きるのは苦しくて私にはできない。風のように自由じゃなければ息ができないみたいなんだよね。そういえば、今朝話した人とは別の人なんだけどね、私には『とにかく子供の心のままでいなさい』って言うの。胸に手を当てて、『頭じゃなくて心に聞いて』って。それから『とにかく家にいるんじゃなくて自然の中に行ってください』って。その人は何を感じ取っているんだろう・・よくわからないし、いつも忘れてるんだけどたまに思い出してやってみるんだよ。『私の心はどう感じているんだ?』って。まあ分からないんだけどね。でも森にも出かけたりするようになったよ。そしたら自然のひとつひとつがとても美しくて、風と緑と土の匂いと鳥達の鳴き声に包まれている感じが本物の自然な感じだって、うきうきする感じ?また会いたくなるんだよ。森の中の風景を思い出すの。そういえば、リンドウだから言うけど...ここの世界に来る前、森の奥の大きな赤目柳の苔むした大きな枝に『失礼します・・』って少し触らせてもらったらね、海に潜ったときに感じたのと近い感覚でまた『知ってる』って感じたんだよね・・何か思い出したような感覚。それと愛情みたいな懐かしいような不思議なもの。そしたら同時に涙が出てくるのを止められなかったんだよ。ただ『ありがとう』っていう気持ちで、とても慰められたよ。意味は分からないんだけどね?その後、また会ってみたいと思った日があったんだよ。それで用事を済ませてからまた赤目柳の木に会いに行こうかと思って出かけた時があったんだけど、すっかり道を間違えて気づいたら用事じゃなくてその森に向かってた。用事を済ませるために出たからサンダルだったし、気づいた時には自分でも怯えたけど。そのあと二度その木に会いに行ったら、これが同じなんだよ。斜めに伸びている苔を背負った躍動的なその枝にそっと手を乗せてみたら、不思議な感情が瞬間的に押し寄せて涙が押し出される感じ。なんなんだろうね?近所にある有名な神社の岩でも近い感じの出来事があったよ?その時は愛というより『癒し』に近い感情だったかな?20秒ぐらい触れてたらふと流れて来たんだよ。なんだか的確で偉大な医師に診てもらったような不思議な感じ。不思議と感謝の気持ちが溢れてくるんだ。なんか、変なこと言ってごめんね。」
 「いやあ、人間の知り得ることは宇宙のほんの一部だから、分からないことがたくさんあるのは当然だよ。それより自分の感覚を大切に感じているのがいいんじゃないかな?僕はなんだか最近そんな風に感じるんだよ。何だってあると思ってるよ。」龍胆は目を細めて笑って答えた。
 「そうなのかな・・赤目柳のことも、その大きな岩のことも、その触れた時のことを思い出してみると同じことが起きるんだよ。再生できるの。言葉では表現できない優しさというか愛情みたいなものがそのまま蘇ってきてまた涙が出てくるんだよね・・なんで人は悲しくても悔しくても、嬉しくても愛情を感じても同じように涙が出てくるんだろうね・・」と言いながら、璃乃の目から涙が溢れた。

 空は相変わらず曇天だったけれど、璃乃はふと頬に雨粒を感じて空を見上げるとぽつぽつと雨が降り出したのだった。






金木犀が香る静かな新月に




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