![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/134936916/rectangle_large_type_2_b0a6c98fc6a3c17927339f1a28d3eac1.jpeg?width=1200)
大山崎山荘と茨木カンツリー倶楽部
大阪に住む私にとって、ずーっと気になって行きたかった場所のひとつ、「大山崎山荘」に昨日、雨の中、ついに行ってきました。
ちょうど夕方に京都で予定があって、大阪と京都の県境の大山崎に寄るのはピッタリ!だと判断したものの、あいにくの雨でしたが、洋館目当てで行ったところですごい出会いがありました。
![](https://assets.st-note.com/img/1711256929173-h3NZi2jkEH.jpg?width=1200)
最寄り駅から無料の送迎バスが出てるから雨でも大丈夫と勝手に思っていたら、この写真のトンネル(この下に門があって、おそらくここからが山荘エリア)のところで降ろされてしまいました。
下の地図の一番下がトンネル。ぐるーっと、坂道を上がります。
雨の中、傘を差しながら(泣)
![](https://assets.st-note.com/img/1711256945720-fjGGv4psAz.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1711256842183-y4wgXvQCNw.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1711256842329-At0NLGYr3v.jpg?width=1200)
加賀正太郎氏
「アサヒグループ大山崎山荘美術館」という名前だから、どうせお金持ちの創業者とかその関係者が持っていたのねーなんて、軽く考えてました。
展示室には、この建物を建設して住んでいた加賀正太郎氏について展示物と解説がありました。
![](https://assets.st-note.com/img/1711259268184-HQqpCKqO74.jpg?width=1200)
1888年、加賀市太郎の長男。加賀家は大阪屈指の資産家として、又著名の旧家として遠近に知られた。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。
ヨーロッパに渡り、日英博覧会やキューガーデンの見学、アルプス山脈ユングフラウ登頂を行った。
加賀證券(のちに菱光証券に商号変更し三菱UFJ証券に合併)を設立して社長を務めるなど多くの会社経営を行い、証券業、林業、不動産業、ゴルフ場経営、洋蘭業などで成功した。
1923年の茨木カンツリー倶楽部設立に参画し、理事などを務めた。また1934年の大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画。1954年死期を悟り、株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山本為三郎にニッカウヰスキー株を売却。同年喉頭癌のため大阪赤十字病院で死去。
こんな経歴を全く知らない私は展示物を順番とおりに見て行ったら、「大阪倶楽部」という大阪の経済人たちが集った社交クラブがあり、そこのメンバーたちがゴルフに夢中だったとあります。(展示室には、大阪倶楽部会館の屋上にネットで張り巡らされたゴルフ練習場の写真も展示されていました。)当時関西には、18ホールの神戸ゴルフ倶楽部、9ホールの鳴尾浜、舞子があって、大阪に18ホールのゴルフ場を作りたい!というメンバーたちの思いをくみ取って、英国渡航歴のある正太郎氏が大同生命の広岡久右衛門氏と尽力して建設したのが、今も大阪の名門ゴルフ場と言われる「茨木カンツリー俱楽部」ということがわかりました。
![](https://assets.st-note.com/img/1711258252159-Rpei5AuwNy.jpg?width=1200)
スコットランドと同じように
私が見てきたスコットランドのゴルフ場にあった設立に至る歴史に出てくる「倶楽部」や「メンバー」の思い。それと同じ気持ちを持って、1922年の大阪に34歳の青年実業家がゴルフ場を作ろうとしていた。
しかも、一緒に尽力した大同生命の広岡久右衛門って、もしかして…と調べたら、やはりNHKの朝ドラ「あさが来た!」の主人公:広岡あさの義弟でした。(ドラマではWESTの桐山くんが演じていた)ということは、ディーンフジオカさんが演じていた五代友厚が出入りしていた倶楽部、あれがまさに「大阪倶楽部」!
ちょっと横道に反れましたが、「倶楽部」というものの雰囲気がドラマを通すとわかりやすい気がします。
日本の古いゴルフ場は、滞在していた外国人がゴルフをするために作ったものが多いと思いますが、こうしてハードだけでなくソフト面も日本人に受け継がれていることに感激しました。
毎日仕事を3時で終えて通った正太郎氏
この大山崎山荘美術館は内部撮影禁止のため、資料の写真を掲載することができません。
スコットランド人プロゴルファーダビッド・フード氏の設計でコース建設工事を開始と茨木カンツリー俱楽部のホームページに出ています。
大山崎山荘美術館展示物には、正太郎氏はコースが概ね出来た頃から毎日仕事を3時に終了してコースに通い、コース内の植栽など植木の手入れ、管理をやったというのです。
「この人、絶対、スコットランド行ってる…」と思いました。
実業家の若者の外遊で英国に行くなら、当然ロンドンとかマンチェスターでしょうが、きっとゴルフが好きでスコットランドでプレイしたんだ。だからあのスコットランドのコースを再現したくて、スコットランド人を招いた。でも、何か自分が感じたものと違うのか、自分で毎日少しずつコースの手入れをしたんだ。
展示物の中で、彼が残した手紙に
「私はこの時間(コースの植栽の手入れをしている時間)がたまらなく幸せな時間でした」とあるのです。
センスとこだわりに脱帽!
展示物の中に、夏目漱石とのエピソードがかかれたところがありました。
この山荘の建設が始まったころ、京都に夏目漱石が滞在していることを知って、正太郎氏は何度も足を運び、山荘へ誘います。
そして、この山荘の命名をお願いするのです。
それに対して、漱石は14個もの名前を提案します。
正太郎はすべて却下して「大山崎山荘」と名づけました。
夏目漱石48歳。正太郎29歳。
山荘を見ればセンスがいいのはわかるし、ゴルフ場に対するこだわりもわかるけど、20歳ほど年長の文豪:夏目漱石に媚びない!(笑)。
すべての出会いには意味と順序がある
スコットランドに行く前にここに来ていたら、ゴルフをする前にここに来ていたら、こんな気持ちにならなかったでしょう。
ゴルフをして、スコットランドを目指して、あそこで感じたことがこうして広がっていく。
とてもとてもうれしい出会いでした。