日本神話と比較神話学 第十一回 太陽の先導と、風の起源 サルタヒコ、ヴァーユ、ヘイムダル
はじめに
深層心理学者のカール・グスタフ・ユングは、ブルクヘルツリ(チューリッヒ大学付属精神病院)で奇妙な妄想を語る統合失調症の患者と出会った。彼は太陽に向かい目を細めて首を振っていた。ユングがその理由を尋ねると、患者は「太陽からペニスが垂れていてそれが左右に揺れている。それが風のおこる原因である」と答えた。数年後、ユングはミトラ祭儀書という古代文献の中に次のような記述を見つけて驚愕する。
患者の男の入院はその文献の出版以前であり、男がその記述を読んだはずはなかった。にもかかわらずこの統合失調症患者の妄想は(「太陽から吊り下がる、風を引き起こす「筒 (pipe) 」)、古代ローマの秘儀宗教・ミトラ教の儀礼の文献の記述と一致していた。
ユングはこの不可思議な一致について、偶然では説明できず、人類には普遍的なヴィジョンを生み出す「元型」が遺伝的に存在しているのではないかと考えた。(実際にはユングの出会った統合失調症の患者にも、入院前にミトラ教の儀礼の記述を読めた可能性はあったらしい。ユングは科学者としてはもちろん、オカルティストとしても信頼しがたい。が、幻視家(Visionary)としてのユングには異様な資質が感じられる)
ユングはキリスト教絵画に現れるビジョン(聖霊の光)などからこのビジョン(原型)の普遍性を論じた。
ギリシャ語魔術パピルス文献に含まれるこのいわゆるミトラ祭儀書自体、ミトラ教との関連を疑問視されている。しかし天上の神々の儀礼を風(風神)が先導(先行)するというビジョンはインド神話にも見られる。
風神ヴァーユは神々に先駆けて神酒ソーマを飲む権利を有すると語られる。またヴァーユは曙の女神ウシャスを目覚めさせるという。
諸神話と比較するとミトラ祭儀書の記述は、ある程度、神話的観念の残存に通じるものと推定される。
小論においてはこの「神々の先導者たる風」の神話を考察する。以下では、おおむね次のような世界観があったと考え、考察を行う。
天上世界と地上世界を結ぶ道がある。
そこでは太陽から下りた筒から風がもたらされる。
そこでは風(風神)が天地を見張り、(往来を支配し)神々を先導する。
風神は地上では人間世界の諸階級(諸氏族)を生み出す。
日本神話において、この先導の神に相当する神格として、サルタヒコの神があげられる。
1 境界に立つ先導者
サルタヒコは日本神話にあられる神格である。サルタヒコにまつわる神話は以下のようなものである。
サルタヒコはその長い鼻と巨躯そして、天地を照らす光を放つ目という妖怪の天狗を思わせる異様な外観、天孫の地上への降臨という重大な場面に現れることなどから、研究者の注目をひいている。
天の八衢にいることから道祖神的神格である、また天地を照らす目の光という特徴から太陽神である、伊勢に鎮まることから伊勢の神宮の先住の神格である、漁をしているときに溺れて海に沈んだ神話が残されていることから海洋神であるなど、諸説が唱えられている。
ただ、その神格を考える上でサルタヒコの外貌の重要性は疑いえない。
サルタヒコの長い鼻と、天地を照らす目はどう考えられるべきか。
太陽(のように照らす目)の下にある長い鼻とは、つまり、前項で論じた、ユングがミトラ祭儀書に見出した太陽から吊り下がる筒(Solar PipeまたはSolar Phallus)に相当するのではないだろうか。鼻は呼吸器の一部でもあり、人体に外の空気を取り入れたり中の空気を排出したりする。つまり風を引き起こす筒でもある。
以上よりサルタヒコの外貌は、この神格が「先導する風神」であることを示唆しているように思われる。(アメノウズメは曙の女神ウシャスに相当する)
次に「天の八衢の神」としての神格の考察に移る。
北欧神話にはミッドガルド(地上世界)アスガルド(アース神族の住む天上世界)を結ぶビフレストという燃える虹の橋が現れる。ヘイムダルは神々に敵対する巨人たちの侵入を防ぐため、ビフレストを見張る神である。彼は次のように紹介される。
世界の終末に、アスガルドを巨人たちが襲撃する時、ビフレストは崩れ、ヘイムダルはラッパ・ギャラルホルンを吹いて神々を目覚めさせる。神々と巨人の戦争・ラグナロクにおいて、ヘイムダルは巨人とともに攻めてきた悪神ロキと相討ちになって死ぬのだという。
さて、このヘイムダルの性質は、上に論じたサルタヒコの神格ときわめて類似している。ヘイムダルの神格は次のようにまとめられる。
アスガルドとミッドガルドをつなぐビフレスト(虹の橋)を見張っている。
その目は百マイル離れたところでも見通し、小さな音も漏らさず聞き取る。
アスガルドへ巨人が攻めてくる際に、真っ先にギャラルホルンを吹いて神々の先導者となる。
一方、サルタヒコは以下のような神格である。
高天原と葦原の中つ国をつなぐ天の八衢を見張っている。
その目は上は高天原、下は葦原の中つ国を照らしている。
高天原から天孫が天降る際に、天孫を含む天上の神々の先導者となる。
以上のように、両者の性質は極めて近しい。(天の八衢とビフレストも同様)北欧神話のヘイムダルには風神の性質は見られず、インド神話のヴァーユには見張りの神話がみられないが、サルタヒコもあわせ、彼らの天上世界における神格は「天地の道を先導する風神」としてまとめられると思われる。
2 貴族・自由民・奴隷
「天地の道を先導する風神」の神格は、しかし、地上世界においては奇妙な変形を遂げる。地上世界ではヘイムダルはリーグ(王)と名乗って人間たちの前に現れる。以下は北欧神話(「リーグの歌」)の物語である。
この奴隷・自由農民・貴族という社会階級の発生に関する、この奇妙な神話を裏付けるように北欧神話では人間は「ヘイムダルの子」と呼ばれる。
フランスの神話学者デュメジルは、原インド=ヨーロッパ語族の世界観には、人間社会は<司祭・王><戦士><農民(生産者)>の三階級で構成される観念(デュメジルによって三機能神学とも呼ばれる)があったと論じる。
デュメジルはインドの古代文献に現れる四つのヴァルナ(姓)-バラモン(司祭)・クシャトリヤ(戦士)・ヴァイシャ(農民)・シュードラ(奴隷)-は、元はシュードラ(奴隷)は存在せず、三機能神学に基づく三階級(バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ)が本来の姿(印欧語族の共通の社会理念)であったとする。イランにもインドの四つのヴァルナに対応する神話的な社会階級が存在する。
同様に、北欧神話の「リーグの歌」の三階級も、本来的には<王(貴族から派生し、魔術を使うため司祭でもある)><貴族(戦士)><自由農民>の三つであったという。
しかし、北欧神話以外の他の地域の神話においても奴隷・自由民・貴族という社会階級の起源が語られている。そこから考えると、デュメジルの考察とは違い、クシャトリヤ(戦士)・ヴァイシャ(農民)・シュードラ(奴隷)がより古層に属する社会理念であり、バラモン階級こそ付加的なものであるとも考えられる。(ヴェーダ神話では各階級は解体された原始巨人の身体から生じた。バラモンは口から、クシャトリヤは両腕から、ヴァイシャは両腿から、シュードラは両足から生じたいという。他に比べてバラモンの発生は付加的に見えなくもない)
以下はフィリピンで採集された階級の起源神話である。社会階級は、原初の猛禽類によって葦の茎から生まれた、最初の人間の男女(夫婦)の子どもたちから生じた。
このフィリピンの神話で興味深いのは「風が砂を吹き飛ばすように」散らされた子供たちから階級(奴隷・自由民・貴族)が分かたれたということである。小論ではヘイムダルを「(天地の道を先導する)風神」に属する神格として論じている。(ヘイムダル自身には風神としての神話はない)
アステカの神話(「太陽の物語」)では、第二の太陽の時代、ケツァルコアトル(風神エーカトル)が支配していた時代に、人間は松の実を食べて生きていたが大風で世界は破壊され、生き残った人間は猿になったという。こちらのほうが、あるいは、本来の神話に近いかもしれない。
3 天神・天孫・地祇
なにゆえ、風神に属すると神話と、社会階級の発生の神話が関わるのか。
話を日本神話に転じる。
サルタヒコには、特に階級発生の神話は存在しない。ただし、ヘイムダルが海岸沿いを歩いて、家々を巡って三つの階級を発生させたように、サルタヒコは海で漁をしている時に、貝に手を挟まれ溺れて沈んだ先で、底どく御魂・つぶ立つ御魂・あわ咲く御魂という三柱の神々を生んでいる。
階級の神話的観念としては大和朝廷に属する氏族の分類の皇別(皇族から分離した氏族)・神別・諸蕃(海外から帰化した氏族)の内の神別がある。神別氏族は始祖として奉じる神々によって、天神・天孫・地祇に分かれる。天神系は忌部・中臣など天津神(天の神々)を祖として奉じる氏族、地祇系は三輪・諏訪など国津神(地上の神々)を祖として奉じる氏族、そして天孫系は皇族・出雲国造といった天照大神の系統の氏族である。
日本の神話学者・吉田敦彦によると、天神と地祇は、司祭・戦士としての支配層(天神系氏族)と生産者としての被支配層(地祇系氏族)の区別の観念を神話的に表しているという。記紀では皇族から臣籍降下した氏族(皇別氏族)は多くは土地・部民を与えられているので、天孫系氏族も(観念的には)それに準じて、被支配層とは区別される自由民とみていいだろう。
そうだとすると、<天神・天孫・地祇>の区別は、おのおの<貴族・自由民・奴隷>の三階級に相当すると考えられる。(王は三階級に含まれない。強いていえば、天孫系の代表ともいえる)
逆にいえば、社会階級とは本来、神々の区別だった。アステカ神話ではくりかえす世界の崩壊と新しい人類の出現のうらで、滅びた種族もまた現在の世界に生き残っていることが語られる。
アステカの神話と、天上の神々と地上の神々の交代の際に先導として現れる風神の神話を比較すると、以下のようになるだろう。
日本書紀の異伝において、天孫の降臨に先んじる国譲りの交渉ののち、武神フツヌシの神は岐神を先導として、大物主と事代主以外の、天津神(天の神々)に帰順しない地上の神々を斬り殺した。岐神を「ちまたのかみ」と読めば、衢神(ちまたのかみ)であるサルタヒコと同一の神格(先導の神)ということになる。
以下は上記の観点からの日本神話の再構成である。
おわりに
今一度、再構成された神話を繰り返す。
高天原と葦原の中つ国を結ぶ天の八衢がある。
そこでは天地を照らす(見張る)目と(風を起こす)長い鼻の神サルタヒコがいる。
そこではサルタヒコは天上では天地を見張り、地上では神々を先導する。
サルタヒコは地上では先導として国津神を討伐し、地祇系氏族を生み出すこととなる。
最後に、もう一例ユングの論じた「太陽の筒(ペニス)」に属すると思われる神格(神話)を挙げる。
中国古代の地理書『山海経』「海外北経」には、北海の鍾山に棲む人面蛇体の神・燭陰が紹介されている。燭陰は目を開けば昼となり、目を閉じれば夜、その息は風になるという。一説によれば、中国神話に現れる火の神・祝融と同一の神格ともいう。同じく『山海経』の「大荒北経」では燭竜という名となり、「目が縦」(これは目が顔から垂直に飛び出ているさまを指すという)であるとされる。また燭竜の住むとされる章尾山は神話上の崑崙山にあたるという。以上は徐朝龍「縦目仮面、『燭竜』と『祝融』」による。
燭竜の棲む崑崙山は神話上は仙界であり、天と地の中間地帯という意味では、天の八衢に相当する。燭竜(燭陰)の特徴である「目を開けば昼となり」とは天地を照らす太陽のような目に相当し、「目が縦(飛び出した目)」で「その息は風」とは風を起こす筒にあたる。
燭竜(燭陰)の神格は(多くの中国の古代の神格同様に)判然としないが、散見される特徴はこの神が「太陽の筒」に属する神格であることを示唆している。
参考文献
工事中
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