日本神話と比較神話学 第十回 料理女と人喰い ウケモチ、メデューサ、馬頭女神
1 はじめに
フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースは自然と文化の対立の結節点として料理を論じた。彼は料理の体系を「生のもの/火にかけたもの/腐ったもの」という「料理の三角形」として見出した。
この「三角形」においては文化/自然以前の「生のもの」に対して、自然としての腐敗によって生じる「腐ったもの」と、文化としての調理の結果である「火にかけたもの」が区別され、「火にかけたもの」はさらに、直接的に火にかけられる「焼いたもの」、水を媒介とした「煮たもの」、空気を媒介とした「燻製(煙にかけたもの)」に分けられる。(料理の評論家の玉村豊男は著書『料理の四面体』で、レヴィ=ストロースの「料理の三角形」に油を媒介とする揚げ物を加え、「生のもの」を底面として「焼きもの(空気)/煮もの(水)/揚げもの(油)」の面を繋げた、実践的な調理理論のモデルとしての「料理の四面体」を提唱した)
また、スイスの深層心理学者カール・グスタフ・ユングはその講義録「クンダリニー・ヨーガの心理学」の中でインド思想の身体・象徴論的な文脈(ヨーガ)において次のように料理を論じた。
料理とは予備消化であり、台所とは外化した消化器官であるとユングは論じる。鳥類や哺乳類などでは、咀嚼能力が未熟な子供に対して、まず親が餌を咀嚼して流動食のようにしてから、子供に口移しで与える行動がみられる。そのような事例は、本来、ユングの言うように予備消化と料理が区別しえないものであることを示唆している。
また、食物の発酵と腐敗に区別はなく、人間に有用なものが発酵であるともいわれる。ともに微生物による化学的な分解作用であるからだが、人間の消化過程でも微生物の媒介が不可欠であることを考えれば、消化とは腐敗の内化であるとすらいえるだろう。
分解者としての微生物が生態系の食物連鎖を循環させるように、土壌とはミミズによる消化・排泄の結果であるように、無生物を含めた地球環境の連鎖の中に腐敗・料理・消化が含まれている。
自然においては腐敗、文化においては料理、身体においては消化・排泄が(あたかも錬金術において大宇宙と小宇宙が照応するように)世界内に等しい位置を占めているといいうる。
このような料理の存在論を展開したのがレヴィ=ストロース、ユングという、神話学(神話研究)において重要な位置を占める人々であったのは偶然ではないだろう。
以下、小論では個別的な神話およびその比較を通じて、上記で論じた錬金術的料理思想を考察する。
2 ハイヌウェレ型神話と魔法の大鍋
古典的な比較神話学においても料理の神話は重要な位置を占めていた。
日本の神話学者の吉田敦彦は次に述べる神話を、日本神話のウケモチの神殺害の神話ときわめて類似した神話として紹介している。(ウケモチの神殺害の神話はのちに考察する)
吉田によると、上記のように死体から作物が発生するという(多くはそれが栽培植物の起源とされる)神話は比較神話学においては、この種の神話の代表的な神話の主人公の名をとってハイヌウェレ型神話と呼ばわれる。ハイヌウェレの神話とは次のようなものである。(こちらには料理の神話は含まれない)
同様の神話はアメリカ大陸・南太平洋(インドネシア・メラネシア・ポリネシア)、日本などに分布する。
典型的なハイヌウェレ型神話は次の要素からなる。
女神的存在が排泄物から貴重品を生み出す。
殺害された女神的存在の死体の各所から農作物(ときに家畜)が発生する。
ハイヌウェレ型神話は必ずしも料理とは結び付かない。女神的存在の排泄物から生み出されるのは食べ物とは限られていない。しかし逆に料理的過程から貴重品や薬が発生する伝承も存在する。
ヨーロッパの民間伝承は魔女はその大鍋で霊薬を生み出す。これはキリスト教伝来以前のケルト神話に現れる、大神ダグザの所有する神宝の一つである、どんな大軍でも満腹にさせる大釜に由来するともいわれる。
また高句麗の第三大国王である大武神王・無恤は遠征の際、沸流水のほとりで女が鼎を担いで戯れているのを見つけた。女が消え残されたその鼎は、火にかけなくても熱くなり食物が得られるので、軍隊を満足させた。
インド神話の、神々が不死の霊薬を生み出す乳海攪拌の神話も、大鍋(料理)から貴重品(神宝)を取り出す神話の一種といえるかもしれない。
大鍋より現れる、いくらでも取り出せる食べ物と不死の霊薬(食べ物)は神話的な「豊穣」を別のかたちで表したものだろう。
比較するとハイヌウェレ型神話の女神的存在たちも、彼女たち自身、料理や排泄物によって「尽きせぬ豊穣」をもたらす魔法の大鍋であったといえる。(自然では腐敗、文化では料理、身体では消化・排泄。吉田敦彦は口から尻にかけて穴をあけ、食べ物を詰められるように作られた縄文時代の土偶を、食べ物を排泄するハイヌウェレ型神話の女性を表していると解釈している)
また中国神話に現れる崑崙山の女神・西王母が支配する蟠桃園の仙桃や、ギリシア神話の女神ヘラが管理する西の果てのヘスペリデスの園に生える黄金のリンゴなどのように、不死をもたらす神々の食べ物(「尽きせぬ豊穣」)は、大女神と関連が深い。
3 馬頭女神と神馬の創造
ハイヌウェレ型神話は大女神が尽きせぬ豊穣をもたらすという神話(「1.女神が排泄物から貴重品を生み出す。」)であるとともに、人間がそれを失うことによって農作物や家畜を獲得することになるという神話(「2.殺害された女神の死体の各所から農作物や家畜が発生する。」)でもあった。(これは尽きせぬ豊穣を与えられていた黄金時代から、人間が自力で労働して糧を得なくてはならないようになるという、楽園喪失の物語でもあるだろう)
ところでハイヌウェレ型神話とは別系統の家畜の起源神話が存在する。そのいくつかを確認しよう。
インド=ヨーロッパ語族の古代文化を研究するブルース・リンカーンは各地域の神話の比較から次のような原インド=ヨーロッパ語族の復元神話を提唱している。
上記の復元神話では三つ首の蛇から牛を取り戻したことによって、人間社会は牛(家畜)を獲得する。
さらに異なる系統の牛馬の起源神話を述べる。こちらは家畜の起源というよりも神馬の起源といったほうがいいかもしれない。各地域の神話は以下のようなものである。
ギリシア神話・ゲルマン神話・インド神話に共通して、馬に化けた神々の交わりによって神馬が誕生するというモチーフがみられる。これらの神話とリンカーンの復元神話とは大きく粗筋が異なるが、両者の中間のような神話もみられる。
上記は有名なギリシア神話の英雄・ペルセウスのメデューサ退治と天馬ペガサス誕生の物語である。リンカーンの復元神話では英雄が三つ首の蛇の怪物から牛を取り戻すが、ペルセウスはゴルゴン三姉妹の一人で頭髪が蛇の女怪を殺害した結果、天馬(神馬)を生み出す。
他方で、メデューサ神話はインド神話・デメテル神話同様、女神が(不本意に?)神馬を生まされる神話でもある。メデューサ(「支配する女」の意)は本来先住民族の信仰する女神でデメテルと同じ神格だったといわれる。異伝によるとペガサスはメデューサとポセイドンの子だという。メデューサはデメテル同様、ポセイドンとの間に神馬を生んだことになる。
アルカディアの秘儀ではデメテルの像の頭部が馬になっていたという。この馬頭デメテル像はポセイドンから逃れるため馬に化けたという神話を反映していると解釈されるが、馬頭女神のイメージはデメテルもまた、頭部から馬を生み出すという神話を持っていた痕跡であるかもしれない。
馬頭女神はまた中国にも見られる。以下は蚕女・馬頭娘という養蚕の女神の由来を語る養蚕の起源神話である。
これは日本ではオシラサマとして伝わる民間信仰となっている。中国では馬の皮をかぶせた少女像が蚕女(馬頭娘)として祀られたという。メデューサ神話・馬頭デメテル像と比較すると、蚕女も本来は女神の頭部から馬が生じる、馬の起源神話であったのかもしれない。
以上の議論をまとめよう。周辺に古層が残るという比較言語学の命題を参照すると、「三つ頭または三体の蛇の女怪の首から牛馬が生まれた」という神話が、一方で「女神が馬に化け(馬頭となり)馬を生み出す」という神話になり、他方で「英雄が三つ頭の蛇の怪物から牛を取り戻す」神話となったと推定できる。そして古層に位置する女神殺害による牛馬起源神話は、ハイヌウェレ型神話としての女神殺害による農作物起源神話に対応すると思われる。
4 三面女神と三つの世界
ここまでの議論を踏まえて日本神話との比較に移ろう。以下は吉田敦彦などによってハイヌウェレ型神話として分類されているウケモチの神殺害の神話である。
ハイヌウェレの神話において、ハイヌウェレが貴重品を排泄するというのは、本来は豊穣の女神(いわゆる「山の女神」「動物の女主人」)が狩猟の獲物などをもたらすという神話に対応するものであったのだろう。農作物・家畜といった人間の労働でつくられる生産物に対する、自然によって与えられる獲得物が女神から排泄される=もたらされる。ウケモチがもたらす米・魚・獣も後者に相当するのは明らかだろう。むろんウケモチの死体から牛馬(牛馬はウケモチの頭の「頂」から発生する。これは馬頭女神に対応する)・蚕・作物が生じるというのは前者から後者への移行である。
さらにウケモチのみせる、平地・海・山にそれぞれ獲物(幸)を吐き出すという三面性に注意を要する。ゴルゴンが三姉妹であり、牛盗みの怪物が三頭であるのは、ハイヌウェレ的な女神が平地・海・山など三つに分節された世界に幸(サチ・獲物)をもたらすという世界認識に由来していると考えられる。
これまでの議論より、比較による原神話の復元は下記のようなものとして推定される。
補論 オオゲツヒメとスサノオ
日本書紀のウケモチの神話と対応する神話として古事記のオオゲツヒメの神話がある。粗筋はほぼ同様で、天上界で乱暴を行ったため、地上から追放されたスサノオが神々に乞われてオオゲツヒメのもとを訪れるが、口や尻から出された料理を提供されたことに怒り、オオゲツヒメを殺害する。その後カミムスヒがオオゲツヒメの死体からは作物の種子(ここでは牛馬の起源は言及されない)を取り出し、農作物とする。
ツクヨミによるウケモチ殺害神話とスサノオによるオオゲツヒメ殺害神話は同一といっていいほどよく似ているので、いずれかが他方の神話の名前を置き換えたものである、またはツクヨミとスサノオは本来同一神などであるなどの諸説(憶説)を生んでいる。
小論ではウケモチ殺害神話が本来のもので、オオゲツヒメ殺害神話は別系統の伝承がハイヌウェレ型神話であるウケモチ殺害神話と混同されてしまったものであると考える。
論拠は次のようなものである。
オオゲツヒメは古事記の神生みの段でイザナギ・イザナミの間に生まれた神々の中の一柱であるが、それに先んじる国生みの段でも、「伊予の二名島」(四国)の「身一つにして面四つある」うちの一つ「粟の国」(徳島県)の別名「大宜都比賣(オオゲツヒメ)」としても出てくる。
一方スサノオは「出雲国造神賀詞」の祝詞で「熊野大神櫛御気野命」と称されるように熊野(和歌山県)に鎮まっていると考えられている。
ここで日本の地形図に目を移すと、世界的な大断層である中央構造線が和歌山県(熊野)から徳島県(粟の国)にかけて走っていることに気づく。(衛星写真でもはっきりと見える)
さて、オオゲツヒメは徳島県であり、スサノオは和歌山県である。そして、和歌山県から徳島県にかけては世界級の大断層が走っている。(別に論じたがスサノオは「大地の神」でもある)
つまり、オオゲツヒメ殺害神話とは本州ー四国にかかる大断層の地形の起源説話(伝承)だったのではないだろうか。
粟の国の地方的な地形起源説話(「あらぶったスサノオがオオゲツヒメを殺害した。いまでもその時の傷痕・大断層が残っている」)が、よく似たウケモチ殺害神話(農作物と家畜の起源神話)と混同されてしまったのだろう。
おわりに
月は人間の死の起源と関わる。(ニコライ・ネフスキー『月と不死』)月は人間に不死を与えるはずであったが、月から人間への使者の誤りによって、人間は不死を得られず、年老いて死ぬようになった、と各地の神話は語る。
月神ツクヨミによるウケモチ殺害神話も、その一面を共有している。
ウケモチが幸を与える平野も山も海も、つまり世界そのものは、蟠桃園でありヘスペリデスの園であり、つまるところエデンの園であり、尽きせぬ豊穣をもたらす世界大の厨房であった。この厨房は失われ今や人間は自分たちで粗末な台所をこしらえ、料理をしなければならない。それは誰の罪なのか。
人間に家畜と栽培植物をもたらした文化英雄は地下に閉じ込められたと神話は語る。同様に世界の恵みを人間から奪った存在は月に閉じ込められる。(月の神自身は太陽と引き離される)
しかし月には不死をもたらす液体(変若水、インドでは神酒ソーマ)があるとされるように、彼らの罪に対する罰である幽閉は、ある意味で不死の世界への回帰でもある。
参考文献
工事中
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