去来と長崎
中島川の上流では、オシドリがこの春生まれの子どもたちを連れて、のんびり泳いでいます。長崎は平年より20日早く梅雨入りしました。そんな中、紫陽花の季節がはじまって、夏服姿の人も増えてきました。
紫陽花や帷子時の薄浅葱(あじさいや かたびらどきの うすあさぎ) 芭蕉
帷子とは夏用の麻の着もののこと。夏衣になった梅雨前、うっすらと青緑色を帯びた咲きはじめの紫陽花の初々しい姿を詠んでいます。長崎の紫陽花もちょうどいま、この句のような感じ。これから梅雨にかけて色合いが濃くなり七変化を楽しめます。
蕉門十哲のひとりである向井去来(1651-1704)に、紫陽花の句を見つけることはできませんでしたが、この季節の山の緑を詠んだものがありました。みずみずしい若葉におおわれた山の表情がまっすぐ伝わってきます。
ひかりあふ二つの山のしげりかな 去 来
芭蕉の信頼も厚かったと伝えられる去来は、長崎生まれ。長崎市立図書館そば(長崎市興善町)に「去来生誕の地」の碑が立っています。父、向井元升(げんしょう)は、儒学者で儒医でもありました。また出島に輸入されてきた海外の書物の内容を確認する「書物改め」もつとめていました。また、私塾の輔仁堂を開いて民間の子弟へ学問を教え、さらに長崎聖堂(学問所)を建立するなどしています。元升は、去来ほど知名度はありませんが、長崎の歴史に大きな影響を及ぼした人物です。別の機会にあらためてご紹介したいと思います。
去来生誕の地の碑(長崎市興善町)
最初の長崎聖堂があった界隈(長崎市玉園町)
さて、去来は8歳のとき父の意向で一家そろって京都に移住。十代後半には母方の親戚である福岡の久米家に身を寄せ武芸に励み上達するも、思うところあって二十代半ばで京都の家にもどります。そこでは、儒医としての名声を高めていた父の医業を継いだ兄・元端をサポート。その一方で天文学や暦数の知識を活かし、皇族や公家の家に出入りしていたそうです。
その後、去来が芭蕉に師事するようになったのは三十代半ばのこと。芭蕉は去来を高く評価し、「鎮西俳諧奉行」とまで言わしめたほどでした。去来は、身内が居住していたこともあり、たびたび故郷・長崎を訪れたといわれていますが、はっきりとした記録に残っているのは、40歳(1689年)のとき(約2カ月滞在)と、49〜50歳のとき(約15カ月滞在)の帰郷です。40歳のときの短い滞在中は、身内に問われるままにおしみなく俳諧の奥義を説いたとか。
長崎を去るとき、日見峠まで見送りにきた卯七(義理従弟)との別れを惜しみ、「君が手もまじるなるべし花薄」の句が詠まれました。この句は約100年のちの1784年に長崎の俳人たちによって句碑が建立され、現在も日見峠に近い場所に残されています。
芒塚句碑(長崎市芒塚町)
49歳のときの帰郷では、いろいろな人に招かれて度々句会に参加。長崎の俳壇に大きな影響を及ぼしました。高潔で恩愛の人であったといわれる去来。諏訪神社、春徳寺、梅香崎町、飽の浦町など長崎市内には去来ゆかりの場所がいくつも点在しています。興味のある方は、訪ねてみてはいかがでしょうか。
◎ 参考にした本/「俳諧の奉行 向井去来」(大内初夫・若木太一 著)、「向井去来の句碑・足跡を訪ねて」(宮川雅一 著)
株式会社みろく屋
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