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おじいちゃん

おじいちゃん子だった。

小学校から帰ってくると、おじいちゃんの部屋に行き、戸棚のカンカンを開け、そこに隠してある板チョコを取り出して、それを持って膝にちょこんと座る。

「手を洗ってからにしなさい。あと、ママには内緒だよ」

おじいちゃんは、大相撲の中継から目を逸らさずに僕に言うのだった。
そして、言われた通り手を洗ってからまた膝の上に行き、2人で相撲を観戦する。たいてい僕がすぐ飽きて、

「観るんじゃなくてやろうよ、相撲やろう!」

と言い出す。

それでおじいちゃんも

「ほら、結びの一番だぞ。これが終わったら相撲でもキャッチボールでもなんでも付き合ってやるから」

と返すのだった。

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相撲観戦と、コイン収集が趣味のおじいちゃん。

手先が器用で、どんなプラモデルもすぐに組み立てちゃうおじいちゃん。

玄関1つ、台所やお風呂・トイレが2つずつの二世帯住宅に同居していて、勉強も遊びも、なんでも教えてくれた。好きなおやつは”ほしいも”と”ビターな板チョコ”。

怒った顔はほとんど見たことがなかったけれど、僕が小学生の頃にはボケちゃって、病院にお見舞いに行ったら、突然説教されて戸惑った。

おじいちゃんは、かつて北海道の小学校で先生をしていたそう。それで、僕のことを生徒だと思って、叱っていたのだという。そんな姿を見るのが辛くて、それから最後までお見舞いに行くことはなかった。

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でも今になって思う。どれだけ教育熱心だったんだろうと。それまでは気に留めていなかったけど、書斎にはたくさんの賞状が並んでいた。

教育委員会からの表彰状や任命証。

「永年にわたり、学校教育振興のためにご尽力いただいた功績を讃え…」

誇らしかった。自分の意識が薄れていく中でも、染みついた教育者としての意識が、目の前の若者を正しい道に導こうとしている。あの時、病室での説教は、そんな魂の残り火だったのだろうと思った。

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前の記事で書いた通り、僕は先日、北海道を訪れた。北海道移住ドラフト会議というイベントに参加し、そこで津別町という道東の小さな町からも”指名“をいただいた。結果として(ありがたいことに)指名被りがあり、最終的に小樽市とご縁をいただいた。小樽への思いは日に日に増すばかりだけど、同時に他に指名をいただいた球団のことも気になっている。

それで、ふと、家族との会話の中で「津別」の名前を出した。

すると、

「おじいちゃん、津別町の小学校で先生やっていたよ、たしか」

母からそんな話が出た。

驚いて調べてみると、津別には小学校が一つしかない。そして、そんな津別小学校の沿革を見ても、見覚えのある名前はない。母の記憶違いか、もしくは近隣の別な学校で教鞭を執っていた可能性もあった。現に、書斎には隣の美幌地区の教育機関からの表彰状も存在した。

しかし、結果から言うと記憶違いではなかった。

津別町にはかつて多くの小学校が存在したが、統廃合を繰り返し、現在の1校に統合されたそう。

昭和53年 津別町立最上小学校 校長 松井隆男

職歴を記した書類には、そう書かれていた。そして、この学校は昭和54年に閉校になっている。時代の流れとともに役目を終えていく学び舎の、最後の校長として勤め上げたのだった。

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おじいちゃんは、仕事の話をほとんどしなかった。穏やかに相撲を観戦するその眼差しで、何を見つめて、何を感じて生きてきたのだろうか。きっと、多くの出会いと別れがあったのだろうと思う。

「ほら、もうすぐ結びの一番だぞ」

記憶の中で、優しい声が聞こえてくる。
僕は今でも、チョコはビターな方が好き。


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