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必要ではないけど大事なもの

11月から鬱の波が来ている。昨日今日と体調が悪く、会社を休んだ。双極性障害だから仕方ない、とどこか開き直りにも近い客観視ができているだけまだマシではある。ただ、職場に部下を罵倒するタイプの上司がいて、自分が標的ではなくても声を聞くだけでその日は眠れなくなってしまうので、そういった睡眠の質の低下の方がよっぽど問題な気がしている。

そんな辛い精神状態のため、同じく双極性障害であることを公表している坂口恭平さんの本を読み返している。特に、最近出版された「自己否定をやめるための100日間ドリル」については、今の自分の心境にダイレクトに響いており、読むと身体が楽になる。

本を読み色々と考えて気がついたのは、「必要か、必要ではないか」という尺度で何でも判断してしまう癖が、自分を否定することに繋がっているのではないかということ。これは幼い頃、よく両親に言われたことでもある。何か欲しいものややりたいことがある度、「それって本当に必要なの?」と言われ、結局、やらせてもらえないことの方が多かった。父親の方がまだ甘いとこがあったが、母に関しては顕著だった。唯一例外があって、小学5年生の頃、ギターを始めたいと言ってクリスマスに父親に買ってもらったことがある。しかし、その後、数週間、母に口を聞いてもらえなかった。きっと、自由に好きなことをすることに、母は嫉妬していたのだと思う。父もモラハラ体質だったので、母が好きで持っていた漫画をくだらないといって全部捨てたことがあったらしく、その恨み言を小学生の私にほぼ毎日といっていいほど投げかけてきた。「私は20年前、父にこんな酷いことをされた」、そんな話を聞いて「可哀想だね」「酷いね」と返答すると、母は嬉しそうな顔をした。大人になった今思い返すと、父も酷いし、母も酷かった。そういう時代だった、と片付けることもできるかもしれないけど、友達の家庭はもっと仲が良さそうだったし、羨ましかった記憶がある。

「必要か、必要でないか」という尺度だと、結局、必要なものなんて何一つないという答えに行き着いてしまう。自分も含めて、世の中にはさほど存在している必要がない。唯一、飼っている犬と猫、そして妻は悲しむと思うので、それだけが自死を思い留まっている理由だ。彼らがいなかったら、もっと早い段階で、思い返せば、公園の駐車場で自死するかどうか悩んで5時間くらい自問自答して、坂口恭平さんに電話をしようか悩んだけど、結局、自死しなかった、する勇気がなかった2年前の冬の日に、きっと実行していただろう。

彼らにとって自分が必要だから、悲しんでくれるのか。いや、そういう問題ではない気がする。自分は精神疾患を抱えていて、年収も世間一般以下である。能力的にもそこまで優れたところは見受けられない。犬や猫のお世話だって、動物好きだったら誰でもできるだろう。そういう意味においては、自分は必要ではない。けど、いきなりその役割をこなせる人間が代理で家に来たとしても、犬は吠えるし猫も怯えるだろう。妻もきっと怖がるに違いない。

トイレットペーパーは必要だ。汚れたままにする訳にもいかないし、手で拭くには抵抗がある。しかし、トイレットペーパーのことが大事か、と言われると、そういう訳でもない。毎日会いたいな、と思うわけでも、元気かなって心配になったりもしない。だから、大事であることと、必要であることは、必ずしもワンセットではない。必要ではないけど大事、大事ではないけど必要。そんな関係性が成立する場合がある。

「そんなもの持ってて何になるんだ」と子どもの頃に捨てられたゲームや漫画たち。父の言うことが正しいと思って、捨ててきたものたち。確かに「必要か、必要でないか」の尺度だったら、必要ないのかもしれない。ただ、幼い頃の自分にとって、それは大事なものだった。それ以来、必要ないものを持っていることが恥ずかしく感じられ(父の考え方を内製化してしまった)、その時々の状況下で必要ないと思われるものを捨ててきた。そんな人生だった。その中には関係を断ち切ってきた親友も含まれる。けど、その中には、大事なものをたくさん含まれていたはずであり、気づかないうちに、「大事なもの貧乏」になっていた。

そんな風に生きてきた結果、ある時、自分の人生が、自分の命がもっとも必要ないんじゃないか、と感じるようになってしまい、自死する方が正しいのではないかという気持ちを抱くようになってしまった。若い頃は、必要な存在になるために無理な努力をしたり、お調子者を演じたりしてきたこともある。それで好かれることもあったが、何をやっても好いてくれない、何なら悪口を言われようなことがあったりすると、「自分の存在の必要のなさ」を再認識して、海の底に沈むような心地になってしまうのだった。そんなことを繰り返す中で、やがて疲弊し、気がついた時には適応障害になり、病状が悪化し、双極性障害と診断されるに至った。

断捨離といえば言葉はいいかもしれないけど、その中に自分の存在を含める行為自体が、イジメなのかもしれない。「必要か、必要ではないか」の判断軸で物事を評価してしまうと、「必要ではないけど大事なもの」を切り捨ててしまうことにもなりかねない。

理由はないけど、何となく大事に思う気持ち。何となく愛着があって捨てられないもの。他人にとっては無価値でも、自分にはとっても大事なものが誰にでもあったりする。例えば、昔読んで救われた気持ちになった本とか、よく聞いていたCD、飼い猫の爪とか。きっと、自分の命についても、本来はそこに分類されるべきものなのだと思う。特に世の中や、他人には必要ないけど、自分にとっては大事なもの。そういうものが誰にでもあるし、それに介入してはいけない。それが尊厳とい言葉なのだと思う。

だから、「必要か、必要ではないか」の尺度だけで物事を判断すると、その対象の尊厳を傷つけることにもなりかねないし、自分の命や存在価値が対象になった場合、高い確率で尊厳を傷つけることになる。

自分は、自分のことを「必要ない」、だから「いらない」と判断してきた。鬱の時は必ずといっていいほど、「必要ないのに、なんで生きているのか」と責めて自死を促してきた。だけど、飼い猫や飼い犬に対しては、そんなこと1ミリだって思わない。そもそも必要かどうかなんて尺度で考えたこともない。別に皿洗いをしたり、お金を稼いでくれるわけでもないし、どちらかと言えばおしっこを違う場所に間違えたり、ご飯も好き嫌いするのでお金や手間がかかるけど、そんなところも可愛い。突き詰めれば「必要ない」のかもしれないけど、とっても「大事」だから、ずっと長生きして側にいてほしい。ほら、必要かどうかなんて話はどうでも良くなってる。

それと同じような視点で、自分のことも見てあげないから、いつまでも辛い気持ちが消えなかったのだと思う。この視点は、つい数年前に犬と猫を飼って、長い時間を一緒に過ごすまでは、自分の中に持ち合わせてなかった。なぜなら、自分の両親からは学ぶ機会がなかったから。それでも、犬と猫と数年間一緒に過ごす中で、取り立てて何か芸をするわけでもないし、おしっこも間違える彼らのことが、とっても愛おしく感じられたのが、自分にとっては衝撃だった。面倒を見れば見るほど大事になっていく感覚があった。自分が体調が悪くて、自分のことを生きる価値がないと思って自己否定しているときも、気づけば隣や足元でくっついて寝ている彼らを見ると、打算でもなんでもなく、自分のことを好いてくれているのだと、安心する。そして、そういうものの見方も世の中にはあるんだ、と勉強にもなる。

「大事か、大事じゃないか」という判断軸も心に持っておきたい。「必要か、必要じゃないか」という判断軸だけでは、きっと自分がその対象になった時に、自分を必要ないとジャッジして、捨ててしまおうとするだろう。そうなると、身体は無意識に自死に向かおうとして、不眠症になったり、自律神経を乱そうとしたり、身体を痛めつけようとする。何も瞬間的なものだけが自死ではない。ゆっくりと身体を蝕むタイプの自死もある。

そんなことを思った。

書いていたら少しスッキリしてきました。寛解したと思ったらまた体調が悪くなることの繰り返しだけど、その度に坂口恭平さんの本に助けられている気がします。いつもありがとうございます。





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