自信を持たずに「事信」を持つ。
私は自分を信用できない。別の言葉で表すと、「自信」がない。うまくやれるときもあるけど、ひどく怠け者になるときもあるし、失敗もたくさんする。そんな不確定な自分を信用できない。
特に自分は双極性障害なので、躁状態だと自信満々だが、鬱状態だと自信喪失どころか、生きる価値が無いと思っている。そんなジェットコースターのようなメンタルだと、自分を信用などできるはずがない。
ただ、私は自分のことを信用できないけど、「事実」は信用できると、そう考えた。自信ではなく、事信。
大抵の場合、何かを意識するとき、何かしらの評価や思い込みを通して、物事を見ていることが多いような気がする。そして、そのような認知の歪みや癖が、ありのままの物事を受け入れることを阻害しているのではないか。そんなことを思った。
自分のことは信用できない。だけど、これまでやってきたことなら信用できる。同じく、やっていないことも信用できる。「だから自分はすごい」とか「だから自分はダメ」とか、すぐ評価をしようとしない。ただ、その事実があるというだけ。あくまで、ただそれだけの話。
価値があるとか、価値がないとか、そういった話も同じで、その時々の基準次第で、評価は変わる。だけど、事実は変わらない。
その事実を、あーだこーだ評価したり、点数を付けたり、価値があるとかないとか、好き勝手に評価してるだけの話。
さらにエスカレートすると、評価をしたいがために、事実を捻じ曲げたりもする。
例えば、「自分はダメだ」という考えは、事実ではない。ただの評価だ。
もし何かに失敗したとしても、それを「成功するための階段のようなもの」だと評価して、自分を励ます人もいる。その逆に、「自分が低脳だから失敗したんだ」と思い込む人もいる。鬱の時の自分はこんな感じだ。
しかし、それはやはり事実ではなくて、評価に過ぎない。0点でも、100点でもない。そんな世界がある。
なんでもかんでも評価をしないで、ただ事実を認識する。それが大切ではないか。
評価なんてものは、その日の体調によっても変わるし、その人の価値基準によっても変わる。そんなものを信用しても仕方ない。
同じように、「自分」もどんどん変わっていく。だから、信じない。「自信がない」ではなくて、「自信を持たない」。事実のみを信じる。
そんな生き方もいいのではないかと思った。