ウサギ追いしかの山、手塚治虫漫画家
小学生の頃だったか、童謡『ふるさと』の替え歌を誰かが歌っていた。
「うさぎお~いし、かのやま~ てづかお~さむ、まんがか~」
その歌で、てづかおさむという人がマンガ家なのだと知った。
鉄腕アトムとかジャングル大帝というアニメがあることはぼんやり知っていたが、我が家は漫画を置かない家。ディズニーとジブリは映画館で観ていたが、手塚治虫の漫画は読む機会が無かった。
初めて手塚治虫に触れたのは高校生の時。
私の高校は手塚治虫の母校と同じなのだが、毎年2月の強風吹きしく淀川の河川敷を走る『断郊競走』という大会がある。この断郊競走、手塚治虫が在籍する時代(1940年代前半)に既に実施されていたようだ。
彼は元々体が弱く長距離走が苦手だったのだが、練習を重ね上位10位以内の入賞をした。その辛い経験が彼の人生を支えたのだ、というような話を当時、聞いた記憶がある。
私も長距離が非常に苦手で断郊は憂鬱だったのだが、その話が妙に印象に残っていた。白い息を上げながら(手塚治虫もこの道を走りきったんだ…)と自分を励まし、バテバテで走った河川敷の光景は、20年経った今でも脳内に残っている。もう二度と走りたくない。
そんなことから興味を持ち、秋田文庫から出ているブラックジャックを読み、ショックを受けた。
漫画でこんなに心がざわつく経験をしたことが無かった。
リアルでグロテスクな病状や手術描写、聞き馴染みの無い医療用語、時に倒錯した世界、ブラックジャックの決して正統派主人公と言えない性格など、異物を取り入れるような感覚で読み進めた。
それまでの私の漫画体験と言えば少女コミックであり、共感しやすいキャラクター設定と日常的なエピソードを、自分の想像できる範囲で、時に自分を重ねて楽しむのが漫画との関わり方だった。
ブラックジャックの、意地悪で暴言を吐き平気で金儲けしようとする嫌な性格、一方で不幸な生い立ちを背負いながらも強く、弱きを助け、多くを語らないが時折ピノコに心を開く描写に魅力を感じ、いつのまにか「ハマった」のであった。
それはまた、好き嫌い/快不快等の単純な世界に居た幼い自分が、多様性を恐る恐る受け入れながら、徐々に楽しむという大人への一歩であったのだとも思っている。
その後は火の鳥(鳳凰編)、七色いんこ、きりひと讃歌、などつまみ食いしながら読んだ。働き始めてからは忙しさから、軽く楽しめるあっさりした漫画しか手に取らなくなり、手塚漫画はしばらく読まなくなっていた。
長らくの空白期間を置き、このGWのど真ん中に手塚治虫記念館に行った。
きっかけは色々と蓄積していた。
昨年夏に高野山に旅行し、密やかに仏教がマイブームとなり、手塚の「ブッダ」を読みたいと思っていたこと。
阪急十三駅に手塚治虫年表が大きく展示されていたがいつも電車の時間に追われ見られなかった悔しさが残っていたこと。
大きな予定を入れなかったGWに、近場でいつでもいけると思って機会を逃している場所に行ってみようと思いたったこと。
自宅から40分程度、阪急宝塚駅を降りて、宝塚大劇場や宝塚ホテルを横目でみながら花のみちを歩く。快晴で爽やかな気候、新緑を楽しみながら10分ほど歩くと、手塚治虫記念館に到着する。
地下1階、地上2階の細長い建物に入り、まず1階。手塚ヒストリーが展示された、ずらっと並ぶカプセルを年代順に辿る。実際に使っていたベレー帽、眼鏡、ペンも展示されており、ちょっと感動。
彼が小学生の時に初めて描いた漫画、『ピンピン生チャン』の展示は、構図や描き方が小学生の力量と思えない大迫力で驚いてしまった。また、高校時代に没頭した昆虫の模写は写真のように精巧だった。
(本名は手塚治だが、『手塚治虫』という名前は、彼がオサムシという甲虫が好きでつけたペンネームというのは有名な話。デビュー当時は『てづかおさむし』と読ませていたのだが、間違えられやすいのと、名前を読み書きする際に『おさむし氏』となり語呂が悪いことから、編集者から反対され『てづかおさむ』で落ち着いたのだそうだ)
小学生~大学まで、授業中にもずっと漫画を描いた手塚は、小中学校では生徒からはもちろん、先生公認で絵を描いていたそうだ。戦時下で軍事色強くなっていた高校ではこっぴどく叱られがならも、手塚が絵を描くことを認め守ってくれた先生がいたとのこと。また大学(医学の学校)では教授から「おまえは漫画家になれ。絶対に医者にならないと約束するなら卒業させてやる」と言われたとか(よっぽど外科医としては危なっかしかったのか…)
医師免許を取り、医者の道を進むべきか漫画家をすべきか、母親に相談した時も「お前のやりたいことをやりなさい」と言われ、背中を押されて漫画家の道をひた走ることになる。漫画家になるべくしてなったんだろう。
カプセルの中には1946年、17歳でのデビュー作『マアチャンの日記帳』や、当時初めてのストーリー漫画として知名度を高めた『新宝島』の絵も飾られていた。個人的に、手塚の絵、子供や女性を描く時のまるっこくふっくらした線が好きなのだが、最初期の作品はそれが顕著で、とってもかわいくて見入ってしまった。
また手塚治虫と言えば、日本で初めて長編TVアニメの制作をしたことでも有名だ。展示を見ると、鉄腕アトムやジャングル大帝の大ヒットの裏側で、いかに手塚が苦労してアニメーション制作を行ったのかを知ることが出来る。
現代のアニメ業界にはびこる薄給や、やりがい搾取などと言われる就業環境は、手塚がアニメ放映の枠を取り、スポンサーを得るために提示した価格設定が低すぎたのが元凶だと言われることもあったそうだ。
(当時のアニメの立ち位置を考えると、そうでもしなければ発展はしなかっただろうし、一大産業になってなおその名残が続いているのはどうかと思うが…最新のアニメ産業は変わってきているのだろうか)
手塚治虫の晩年について。
彼は胃癌を患っていたが、家族は彼に病名を知らせなかったそうだ。
ただ晩年の作品で、全く同じシチュエーションのキャラクターが癌で死にいくエピソードがあったとのこと、手塚自身も病気を分かってはいたのだろう。
大ヒットを飛ばし20代にして関西画家の長者番付一位となり、その後とんでもない借金で会社が倒産し、40半ばを越えて再度見直され、生前から漫画の神様として尊敬され、60歳の若さで死ぬその時まで「仕事をさせてくれ」と懇願し漫画を描き続けたという。
彼の中にアイデアが有り余り、何とかして世に出さねばという渇望があったのだろう。何とも濃密で、ジェットコースターのような生き方だ。
彼の没年月日は1989年2月9日で、昭和から平成になって1か月後だった。
興味本位でwikipediaを調べると、1989年は手塚の他に、松下幸之助や美空ひばり、田河水泡(漫画『のらくろ』の作者で手塚も大いに影響を受けている)も亡くなっている。まさに昭和が終わった年だな、と思いを馳せる。
手塚治虫記念館の2階には、手塚作品がずらりと並び、ベンチに腰掛けて自由に作品を読むことが出来る。『ブッダ』を手に取る。全14巻の内、2巻の途中まで読んで、人が増えてきたため退席した。
ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ)を主人公としながら、手塚自身が全くのフィクションと言っているこの作品。高校時代の感受性でブラックジャックから受け取ったものには及ばないだろうが、こうして大人になり、手塚治虫という人物像の一端を知った上で読み進める楽しみを、これから味わっていける。手塚治虫が多作の漫画家で良かった。
最後にタイトル回収。
手塚治虫は1928年に大阪府豊中市に生まれ、5歳から上京する24歳までを宝塚で暮らしている。
今や宝塚は開発され、調和された緑地が美しい住宅街となっているが、記念館の地下階に設置された、1930年代当時の模型展示を見るに、荒々しく豊かな自然に恵まれていたようだ。
手塚治虫が幼少期にウサギを追っていたかは分からないが、虫を追って山や森で多くの時間を過ごしたことは間違いない。彼が漫画を通じて縦横無尽な世界を描き、生命の大切さを説いた根本は、ふるさとの自然に触れた体験に育まれているのだろうと思う。
そう思うと、
「うさぎお~いし、かのやま~ てづかお~さむ、まんがか~」
という替え歌は、語呂の良さだけではなく、手塚治虫の本質をついている…と、妙に感心したのであった。