生きる意味がない?それなら贈与に気付いてみる『世界は贈与でできている』を読んで①
わたしは自己中心的だと思う。
今の自分が生きることで精一杯。
だれかを心から気にかけたり、思いやったり、愛したり、できない。
子供たちが大人になったとき良い社会でありますように、100年後の地球が美しくありますように、なんて願えない。
たとえば。
一方的にお世話になって、何者でもないわたしのやりたいことを応援してくれたり、人や仕事を紹介してくれた人たちがいる。たぶんその人たちがいなければ、今のわたしは生きていない。そんな尊敬する人にわたしから渡せるようなものはないし、どうお返ししていいのかわからない。
ADDressでシェア生活をしていると、「よかったら食べて」とおすそ分けどころではない1週間は食べていけそうな量のご飯をいただく。「ください」なんて言っていないのに受け取ってしまって、どうお返ししていいのかわからない。
あの人は、貧困家庭で育つ子供たちのための教育に人生を捧げている。また別の人は、100年後の人類がより良い生活を送れますようにと事業に取り組む。どうしたらそんなに人のことを想って生きられるんだろう。
母はよく「変わりない?」と気にかけてLINEをくれる。実家に帰ると、ご飯も洗濯も、「もう大人だから自分でできるよ!」と思うようなことも全部やろうとしてくれる。わたしが生まれたときからずっとなんだよなあ。どうしたらそんなに人のことを想って生きられるんだろう。
こういうことを疑問に感じていたわたしは自己中心的だと思う。
与えられるものも余裕もない、むしろ迷惑をかけているわたしは、無価値で生きている意味がないと感じる。
贈与とは
①贈与とは「お金で買うことのできないもの、およびその移動」。対義語は交換。
たとえばプレゼント。「〇〇さんから就職祝いでもらった名刺入れ」には、名刺入れとしての価値に加えて、「〇〇さんから就職祝いでもらった」という余剰価値がある。その余剰価値が贈与。
②贈与は見返りを求めない。たとえば親からの愛。子供に対して経済的見返りを求めて子供を育てる人はほとんどいない(この子を億万長者に育てて養ってもらおうとか、将来介護をしてもらおうとか)。
③差出人は「これは贈与だ」と宣言してはいけない。そう宣言した瞬間、受取人に返礼の義務が生じ、贈与から交換になってしまうから。ということは、そもそも贈与は宛先に届くとも限らない。差出人がやれるだけのことをやったら、あとは祈るだけ。「届いたらいいな」と。
つまり、受取人が贈与に気付いたときにはじめて、その行為が贈与として現れる。
わたしも贈与の差出人かもしれない
自分が贈与を受け取ったと思う経験を思い出してみた。
【具体的には続編noteを書いてここにリンクを貼ります】
「わたしは贈与で生かされているなぁ」と思った。
ではわたしが受け取った贈与の差出人は、それを贈与だと思って差し出しているだろうか?
みんな気付かぬうちに、贈与の差出人になっている。
ということは、わたしも気付かぬうちに、贈与の差出人になっているかもしれない。だれかのためになっているかもしれない。
……そう思うと、ちょっとだけ自分にも生きる意味があるかもしれないと思えてきた。
それでもまだ生きる意味がないと思う?
それなら。
差出人の立場に立ってみると、宛先の存在があってはじめて贈与ができるということに気付く。差出人は、宛先から「贈与しなければという使命=生きる意味」を受け取っている。あなたのおかげで、差出人の「届いたらいいな」、が実現できている。
……わたしは受けとってばかりだ。と感じていても、それは差出人に「生きる意味」という贈与を与えているということみたいだ。
でもさぁ、なんかお返し、したいやん。
当書ではこのように答えている。
つまり、
歴史を学び、想像力を働かせ、贈与に気付くこと。
そして受け取った贈与を、差出人や他の宛先に伝えるメッセンジャーとなること。
このようにして贈与はめぐりめぐる。
学びを活かすアクション
もっと、自分は多くの人から受け取って生きていることに気付く。学び、想像する、瞑想もそのひとつかもしれない。
受け取ったことに気付いたら、素直にありがとうと言う。→それが差出人への贈与となり、わたしの生きる意味になる。
受け取ったことについて第三者に伝えてみる。その行動が、わたしからの贈与となるかもしれない。
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