前方席デビューと予科生時代からファンというパワーワード ー古参ファンAさんの場合ー
≪前回の記事はこちら≫
緞帳がほんの少しゆらゆらと揺れている。
その厚い布の向こうから、かすかな音が聞こえる。
舞台の幕が開いた。
さっき聞こえたあの音は組子さんたちの足音だったらしい。
(すごい、こんなに前に座ると音が聞こえるんだ)
私は心の中でつぶやいた。
ストーリーはこうだ。
ある青年にはある目的があり、それを果たすために奮闘する。そこでとある女の子と恋に落ちるがそれは叶わぬ恋だった、という現代劇だ。
舞台の端々で街の若者たちがしゃべっている。
いまの私にはこれが誰なのかさっぱりわからない。
まだ最近知ったばかりの組子について、名前と顔が一致するほど覚えていないのだ。
それにしても近い。
オペラグラスどころか、裸眼でもはっきり見える。
見ているこっちが恥ずかしくなるくらい近い。
(私、いまの顔大丈夫かなぁ)と急に不安になる。
人間窮地に陥ると変なことを思うものだ。
自分の顔なんて大丈夫かどうかなんて本人しかわからないし、多少変だったとしても誰も気づかないのに。
いまは知らない組子さんしかいないけど、このあと「聖夜 椿」が出てくるのだ。
そう思うと緊張感からか頬がこわばり、ガチガチに動かなくなっている。
もうどんな顔して座っていればいいかわからない。
この静まり返った劇場の中で私の心の中はひそかなパニックに陥っていた。
急に大げさなほどのオーケストラ音が鳴り、トップの椿が登場した。
私は慣れない前方席で、あまりに迫力ある音にビクッとしてしまった。
(は、はずかしい。。。)
自分では気づかなかったが、隣のAさんがこちらをチラッと見たのだから、相当身体が動いたのだろう。
私はというと、そのとき既に沸点に達していた緊張感と恥ずかしさで、目の前にいる椿のセリフは全く頭に入ってこない。
椿が銀橋を歩きながらその中心に立った時には、私の心臓も一緒に止まった。
と思う、いやきっと止まっている。
思えば私の前方席デビューは終始こんな感じで、まったく舞台に集中することができなかった。
◆
「一緒にお昼ごはんでもどうかしら?」
Aさんは幕間になると声をかけてくれた。
「えっ、いいんですか?」
「もちろん」
Aさんはそう言うと、ササっと席を立ち出口の扉へ向かって歩き出した。
私はあわてて荷物を持つと、その後ろを離れないようしっかりついて歩いていく。
幕間のレストランは予約制で、しかたなくフードコートのような場所で食事をすることになった。
「私はここのたこ焼きが好きなの」
Aさんはそう言うと、慣れた手つきでトレイを持ち席に座った。
◆
たこ焼きを上品に食べながらAさんは、どうして椿を応援することになったのかいままでの経緯を話し始めた。
「私はね、椿とはまだ予科生のころからのおつきあいなの」
私はびっくりして、頬張ったたこ焼きが口から飛び出そうになった。
(予科生って、まだデビュー前だよね?今とは全然違うだろうし、これからどうなるかもわからないのに、それからずっとファンでいたってこと?)
私は声には出さないものの、きっと顔に出ていたと思う。
そんな前から応援していたなんて、そしてそんな人と一緒に観劇しているなんて。
「すごいですね」
頭にはいろんな言葉がうずまいているのに、口から出てきたセリフはこれだった。
語彙力ゼロの言葉しか出てこない私に、Aさんは答えてくれた。
「この子はぜったいスターになるってわかったの」
Aさんはキリっとした瞳で微笑んだ。
◆
話しによるとAさんは自分で会社をおこしている実業家らしい。
以前から宝塚の舞台に慣れ親しんでいて、椿の前にも応援していた人はいたそうだ。
それにしても予科のころから生徒さんのことを知ることができる人というのはどんな人なんだろう。
私は興味津々だったが、Aさんとはまだ初対面。
知り合ったばかりの人にずうずうしく質問攻めにするほど私の精神はタフじゃなかった。
そうしているうちに第二幕ショーの開演が迫ってきた。
「さあ、そろそろ行きましょうか?」
Aさんが席を立った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?