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今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし『方丈記』

 さて、最初に(2022年8月28日放送)の『鎌倉殿の13人』。

 やはり。
 やはり親の仇としてトウに討たれたか、善児。

 そんな予感がしていましたが…

前回記事の、リコットさんのコメントへのお返事 ↓

お弟子さんのトウさんは、私もたぶん「あのとき」の女の子だと思うのです…。でもたぶん、彼女は善児に親を殺されていますよね。トウの命を救ったことが善児を変えたのかもしれませんが、善児とトウの間にもなにかしらの緊張感があって、この後何かありそうな気がしてなりません。
千鶴丸…あのときは「うわーやめて~」と思いました…

 うーん。思ったより早かった、かも。
 畠山あたりまでは善児でいくんじゃないかと思いましたが。
 なにしろ畠山重忠は善児の悪事を詳しく知っている人物のひとり。

 頼家の暗殺に関しては、今回、風呂に漆を入れられたり(修善寺に伝わるお面があるらしいけど真偽不明)、風呂場で悲惨な死を遂げたなど(ちょっとここではおいそれと書けない方法で)、そういう話は抜きで、暗殺者である善児と刺し違える(善児は一幡の名前を見て動揺)という設定でした。

 善児、字が読めたんだ…
 しかも夜で暗いのに…

 太郎はどうして「雑面ぞうめん」を被った善児を見破れたのでしょうか。笛の指が動いてなかった?音が聞こえなかった?気配?ちょっとわかりませんでしたが、見破られるとは善児、やはりそこから「しくじって」いたのでしょうね。

 兄を討ったのが善児だと知って、義時が
「私に善児が責められようか」
 と言ったのが印象的でした。

 特に、和田義盛のところで運慶さんと会ったという演出が心憎いと思います。和田義盛は信心深く、運慶さんと懇意だったのは史実でも確かなようです。

 運慶さんと初めて会った15年前なら、事実を知った時点で善児を討ったかもしれませんが、もうそんな自分ではない… 
「太郎はかつての私なんだ」

「野心ではなく、仕方なく」討伐する側へと追い込まれていき、苦悩する義時の様子を運慶さんがうまく解説してくれていました。

 畠山に和田と、いろいろフラグも立ってきてますね。

 いずれ義時の依頼でも仏像を彫る運慶ですが、北条時政、義時親子は鎌倉ではなくジモト伊豆に菩提寺『願成就院』を作り、そこに運慶作の像や墓を置いてます。彼らの拠点はあくまで伊豆だったのでしょう。

 鎌倉にお墓があるのは、三代執権泰時から。
 金剛太郎、生まれも育ちも鎌倉ですからね。

 驚いたのは、今回の放送の最後の「紀行」で、修善寺にある頼家の墓が、頼朝の墓のようにとても簡素でひっそりとしていたこと。

 たとえば京では、朝敵となった人物を討伐した際、たいてい、怨霊になって祟らないように神社に神として祀るなどするものですが、怨霊になってもおかしくない、未練や恨みを残したであろう人物でも、関東では神社に祀ることはないのですね。当時坂東の人々はそういうことは思わなかったのかなと思うと、東と西の違いを感じて、少し不思議です。

***

 さて、今日は『方丈記』のお話。
 『方丈記』が意外と短いエッセイだということに気づいてから、たびたび読むようになりました。

 古典はどれも長い、と思いがちだけれど、それはたぶん『源氏物語』が五十巻もある、という先入観からで、昔の話にそんなに長いものはない気がします。
 そもそも紙も墨も貴重で有限で、今みたいに紙やプリンタのインクが切れたからと言ってAmazonに注文すれば次の日に補充されるようなものではないし、電子世界に滔々と文字を打ち込めるようなものでもないのだから、どう考えても現代人のほうが大量の文章や分厚い書籍に慣れ親しんでいるはずです。

 以前『独学大全』を読んだときに、「古典の面白さは注釈の面白さ」というのを読んで「なるほど!」と膝を打ちました。

 私たちは古典を初見ですんなり読むことはできません。今使っている言葉で読むわけではないのだから当たり前のことです。

 だいたい、発音一つ、もはや失われてしまった日本語で書かれています。戦国時代あたりまで「は」が「ファ」あるいは「パ」という発音だったという「ハ行転呼」はチコちゃんでも取り上げていたくらい有名な音韻変化で、そんな例は枚挙にいとまがないくらいあります。古典はほぼ外国語です。

 学校の勉強では文法的な細かいことに目くじらを立てすぎる傾向があると思うのです。もっとざっくり「物語」を語ったほうが、子供たちは興味を持つだろうし、より知りたくなったときに文法や文型や活用に入ったほうがいいんじゃないか、と常々思っています。

 宇治拾遺集なんて、小中学生男子が喜ぶ下ネタ満載(R-18も多いけれど)で、昔話の原点の話もたくさんあります。今昔物語は今の異世界転生やファンタジーに繋がる流れがあったりします。


 幸いにも、先達の研究者の皆さんが研鑽を積んだ成果を、後世の私たちに残してくれています。それが書き下し文であり、注釈です。思い切った現代語訳版というのもあります。せっかくあるそれを無視して、難解な原典に当たって挫折して読めないのはもったいないなと思います。現代語訳は外国語文学の翻訳書と大差がありません。翻訳を楽しめて、古典を楽しめないはずがない、と思うのです。

 しかも昨今は、その「翻訳書」の数たるや、よほどレアな文献でもない限り、懇切丁寧な書籍が数多く世に出回っています。全くありがたい時代です。

 『方丈記』の話でした。

 私は、自分のプロフィールでもちらりと方丈記に触れていながら、ちゃんと読んだことがありませんでした。

 ちょうど810年前に成立した『方丈記』。改めて読んでみると、これが面白いのです。
(今回読んだのはこちら↓)。

 特に作者鴨長明さんが「禰宜(神職)の家に生まれたのに、出家している」という事実。

 気づくの遅いですが、気づいてハッとしました。

 鴨(賀茂)といえば、由緒正しい神職の家柄。陰陽師は別氏族らしいけれど、とにかく仏教とは相いれない血筋。にもかかわらず出家。ただ神職から離脱するだけではない意味がそこにあるんだろうな、と。
 神経質で偏屈なオッサン、という印象を持たれがちのようですが(太宰治の小説のせいかも)、ちょっと違うんじゃないか、と。

 大きな神社に生まれ、高校生の時に父が他界。母は幼いころに亡くなってるし、親戚が牛耳る神職の世界は出世競争が苛烈で、父親という後ろ盾を失ってからは立場が弱い。音楽の世界に魅入られていて、結構いい詩(和歌)も作るし曲も弾ける。かといって、それで食べていけるわけじゃない。詩なんかは時のジョーコー・ゴトバにも認められて取り立てられ、一時は北面の武士になったこともあった。でもやっぱり神職で頑張ろうとするもののジョーコーが「この人なかなかいい音楽センス持ってるから、出世させたげて」って根回ししてくれたのに、親戚連中はそれを妬み、いじめを加速。「あいつはそんなにデキる奴じゃないです、親戚中で嫌われてます」みたいなことを言い出す輩もいて、なんかもうどうでもよくなって、五十で出家。お気に入りの琵琶ギターひとつ抱えて山奥に遁世。立って半畳寝て一畳みたいな「方丈タイプ」の2×4ツーバイフォー式住宅を建て、そこにちっちゃな仏壇と琵琶を飾って暮らすことに。
 時々会うのはふもとに暮らしてる炭焼きの親子くらいで、あとは自然との共生。ごちそうも食べられないし、ちょっと寂しい夜もあるけど、都会暮らしの世知辛さよりはずっとまし。解脱には憧れてるけど、念仏唱えたり唱えなかったり、ほどほどに。でもどこかで宗教ってものの本質を看破しちゃってて、どんな宗教にものめりこめないリアリスト人生。こんな庵にまで執着しちゃって、琵琶なんて持ち込んでるからダメなんだよなーといいつつ、そろそろ人生も終わりに差し掛かっているから残しときたいと、大火、竜巻、遷都、飢饉、大地震などの自分が見聞き体験した災害・人災をクールに客観的視点をもってルポを書く、それが方丈記。
鴨長明さんの半生と方丈記のなりたちをまとめてみました。

 鴨長明は『愚管抄』を記した慈円と同じ年に生まれていて、実朝が暗殺される3年前に死去しています。
 実朝は鴨長明の和歌を本歌とした歌を残していて、鴨長明は晩年、和歌を通じて実朝とも何度か面会しています。頼朝の法華堂では経を唱え、和歌を柱に書いたと伝わっています。

 確かに実朝は鴨長明には憧れたかもしれません。何もかも捨てて和歌に生きたい!と願ってやまない人生だったと思うので。 

石川や瀬見の小川の清ければ月も流れも尋ねてぞすむ
鴨長明『新古今和歌集』
君が代もわが代も尽きじ石川やせみの小川の絶えじと思へば
源実朝『金槐和歌集きんかいわかしゅう
上の鴨長明の本歌を本歌取りしています。
鴨長明に対するリスペクトがうかがえます

 うっかりツラっと読み流してしまいそうになりますが、ふたつの歌はそれぞれに彼らの人生が関わっていて、ここで簡単に触れるのは無理です。記事何本かになりそう。


 実朝暗殺の後まで生きていたら、長明さん、それも書いたかな。武士に対しては方丈記ではほとんど触れられておらず、「ひなびたる武士(田舎者のの武士)」といまいち印象が悪かったようですが、実朝と会って少し変わっていたかもしれませんね(鎌倉に来たのは方丈記を書き上げたすぐ後だったとか)。

 それより面白いなと思ったのは、福原遷都に関して、

「古の賢き御世には、あはれみを以て国を治めた給ふ。すなわち殿に茅ふきても、軒をだにととのへず、煙の乏しきを見給うときは、限りあるみつき物をさへゆるされき(昔の立派な天皇の時代には、慈悲の心をもって国を治めていた、宮殿の屋根が雨漏りしても修繕せず、民が貧しいとみたときは、租税や労役を免除した)」

 として、仁徳天皇の「民のかまど」が引用されていることで、そのあとにこの記事のタイトルにした

今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

と記されていることです。

 この文章は、武士(清盛)に踊らされて、福原くんだりまでのこのこ都を移して、国を貧しくしてる場合じゃないでしょうに、もっと昔に学びなさい、と言っているのですが、なんだかこの狂騒が、今の世の中にも通じるような気がしてならないし、動乱の時代に歴史に学べという教訓は、まさに現代にも通じることではないかと思ったりもするのです。










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