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自分の頭で考える

「自分の頭で考える」という当たり前の
ことが少なくなっているように思える。マニュアルがあるのはあくまでも指針であってこの通りに作業をすれば間違いはないということで、作業を超えたところに問題が発生する。実際にやってみると、その通りやってみてもマニュアル通りに行かないことが起こる。それは人の思惑が入るからで、クレーム対応なんて言うのはまさにその隙間の問題から発生する。

目次

1普通とは人の数だけ存在する
2議論は死語
3ものを言うことのリスク
4人はマニュアル通りじゃないから

人は機械じゃないし、どんな対応をしても受け取る側にとってみればすべて違う感触になるだろう。一般論というのは最大公約数的にまとめられたもので、概ねこの範囲の中に入ればこの対応で解決するという経験値。はてさて、これを「普通」と呼ぶのであれば、「普通」じゃないことが起こるのは何故だろう。

多様化と言われて久しいけれど、多様化とは「普通」というのが人の数だけあるということを再認識させられる
確かに、既存の方法では解決できなくなっているのかもしれない。

2議論は死語

何を言ってもいい時代。
SNSであれば、いくらでも言いたいことが言える。でも、実社会で同じことは起こらない。多くの場合「議論」なんて存在していないに等しい。論争なんて死語ではないかしら。会議の場でこれはおかしいと論理性で追及することもなくなった。
話し合いを持とう。なんていうことがあっても、無駄に時間を過ごすことも多々ある。互いに言いたいことを言うだけの話し合いでは、平行線だからだ。譲歩することや、共通理解を得られればとりあえず、方向性を出して次のステップに行ける。
これがSNSとかだと、言いたいことを言うだけなので際限がないわけだ。つぶやきと承認。なるほど人の欲求をうまく満たしてる。

この言いたい放題ということと議論をすると言うことは全く次元が違うと思う。議論というのは結論の設定から、方向性と問題点を確認しながら進めていく。わかりやすいのは、法廷物のドラマですね。相手の上げ足を取るわけではないけれど、いかに自分の論理に持っていくか。かみ合わなくても、論理性で証明できれば勝ち負けが決まる。
ところが、言いたい放題というのは噛み合おうが合うまいが関係ない。自分のいいたいことだけ。勝ち負けの論理もない。それに反応して返すこともおかしいのかもしれない。
一つのテーマでディスカッションってしないのかしら?
もっとも、自分の学生時代もそういうことなかったかもなぁ。それでも話していたように思う。「こんな時代になっていいのか」なんてね。
政治的な話も避けてたかもしれない。なぜってどこの政党だろうと結局この世は変わらないぐらいにしか思えなかった。きっと誰が総理大臣でも同じだろうと思っていた。今はあの時代よりも酷くなったように思う。

3ものを言うことのリスク

それこそ最近ではハラスメント問題があるから、受け手がどうとるかが大事になっている。ではSNSではどうか?受け手は個人じゃないから投げた言葉は拡散するだけ。ただそれだけ。責任もない。
たまに、ホリエモンが面白いことを言って、皆さんの反感を買っているようだけどあれだって、独り言だからどうでもいいことじゃないかしら。

それこそ誰が何も言ってもいい空間。独り言の世界だから、あそこでは議論はないと思う。それぞれが何を思ったかだけだから。
実社会においては、不特定多数の人に好かれていることが大事ではないので、誰が何を言ったのか絶対に責任が付きまとう。しかも、注意でもしようものなら「パワハラ」とかいわれてしまう。
でも、部下に対する本気の愛情があればそれはパワハラにはならない。今ここで、注意しておかないと将来困るだろうと思えば、かわいい部下なら絶対に言う。ただその言い方はそれぞれの個性に合わせた言い方になる。やはり、傷つかないように言うとか、その子の気持ちが萎えないように言うとかいろいろだ。ものを言うことは、必ずリスクが伴う。
誰かを傷つけたら、言った方はもっと傷ついている。いう方がしんどいからだ。これが議論であれば、傷つくとかそういう土俵ではないはずだけどなぜか日本ではその土俵であっても議論ができない。つまり幼いとしか言いようがない。大人なんだから客観的な議論はできないのか。とも思う。

4人はマニュアル通りじゃないから

人はマニュアル通りにはいかない。なぜって定義できるのは個体としての特徴だけ。「人間」としての定義はあっても、「個人」という概念だけで、個人とは全く異なる個体だということ。一般論で定義付けしたマニュアルでは対応できないのは当たり前だろう。
よく、「○○な人がやってる5つの行動」・・・これ成功者のマニュアルですね。さあ、5つの行動とは?人の話を聞く、冷静に対応、行動する、関係を築く、失敗を恐れない・・・あたりでしょうか。
つまり、一般的にはマニュアルはできますが、それぞれの組織や環境そして性格、人の数どの要素をとっても、同じようにはいかないのです。

自分の頭で考える

これは問題が起こった時、必要なことだと思っている。マニュアルに頼るのはいいかもしれない。そこには正しいことが書いてある。
その正しさをどう使うのか。そこが頭の使い方になる。
常に、問題が起こったら自分ならどう対応するのか。先ず考えてみる。
マニュアルに沿った形で問題解決が出来ればそれに越したことは無い。
仕事にはルールがあるので、それに従い、後はその組織で都合よく解釈して能率を上げることだってできる。だが、「どうしたらいいんですか?」「どういうやり方でやるんですか?」などと事細かく指示をもらいたがる人達がいる。個人的には「監査で指摘されないようにやったらいいでしょ」って思うのですが、「上がそういったからこうやりました」という担保が欲しいのでしょうね。自分の責任じゃないと。

上の言いなりでいいんですか?上から無理難題が来たらそれでもやれますか?人の考え方には違いがあって同じ規則でも解釈によって全く労力を変えることが出来ます。細分化して小さく見るのか、俯瞰した見方から必要のないことは省略できるということも、人それぞれなんです。上司はその性格によって指示の出し方が異なることもあるわけです。

議論って頭を使わないとできない。相手があるので。
説得できるかどうかで、道が分かれるなら独り言程度のつぶやきではどうにもならない。責任を持った発言からしか次の展開はないと思います。

悪意だけはどんどん拡大するようですが・・・残念ですよね。
もっとも、それが人間社会なのかもしれませんが。

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