317.離陸決心速度 / ただ飛ぶための
パイロットが主人公の小説を読んでいるときに初めて知った「離陸決心速度(decision speed)」という言葉。どういうわけか、わたしの心をつかんで離さない。decision speedは、そのままだと「決心 速度」だ。
でも、訳語となる「離陸決心速度」という言葉にぐっとくる。
専門用語的な説明は省くけれど、要は航空機操縦時に指標となるスピードのことで、この速度をいったん超えてしまったならば、必ず離陸しなければならない、という制限速度 (V speeds) の一種だそうだ。
離陸決心速度を超えると必ず離陸しなければならない。
というフレーズからどうしても目が離せずに、何度も何度も読んだ。
離陸決心速度(V1)を超えたなら、一度超えてしまったならば、もう引き返すことはできない。離陸決心速度を超えると、滑走路をオーバーランする可能性があるため、離陸中止(RTO; Rejected Take-Off)ができない。
もし離陸決心速度(V1)到達後の離陸滑走中になにかトラブルが発生した場合は、離陸操作を継続し、上空で引き返すかどうかを判断することになるという。
わたしたちにも「離陸決心速度」というものがある、と、ふるえる胸で感じた。わたしたちのだれもがきっと、この「V1到達」という速度をむかえたことがある。人生の、ある場面で。大舞台かもしれないし、ささやかな日常だったかもしれない。事象の大小とはまったく関係なく、わたしたちはこの「離陸決心速度」を知っていると思う。
いまだ、という瞬間。
ここまできたら、このスピードのまま、飛ぶしかない、という瞬間。
飛べ、という声がする。
そこで飛ばないという選択肢はない。けれど、わたしたちはときにまちがえてしまうわけだ。「これはまだ、離陸決心速度ではないよね?」と。
まだこのスピードだったら、減速してブレーキをかければ止まるはずだ、と。
空に飛び立つ準備なんて、まだできていないんだった。
けれど、じつは離陸決心速度はとっくに超えているんだよね。
そこでの選択肢は「離陸して、飛ぶ」の一択だ。それしかない。
怖くたって、なんだって、離陸して空に飛び立ってから、そこでまた判断なり選択なりをするしかないのだ、だってV1に到達しているのだから。
飛ばない選択肢、元の位置に戻ること、離陸しようと心に決めて、スピードに乗って速度をあげていった自分の決心を、そこでなかったことにしてしまうとオーバーランという事故につながる。
事故と損害。べつにわたしたちはほんとうに旅客機を操縦するわけではないので、そんなことどうってことないような気がするかもしれない。
けれど、わたしたちは往々にして大きなツケを払うことになる。
そこで、その離陸決心速度で離陸しなかったツケは、人生において「大きな外部ショック」という形でやってくる。
軽症であれ重症であれ、オーバーランはどんなものでも「事故」なのだ。しかも、多くの場合は人為的な。
なにか、仕事でも日常でも人間関係でも「いまだ」というときがある。
たとえばやってみたい仕事があるとき。たとえば行ってみたい場所があるとき。たとえば会ってみたいひとがいるとき。たとえば好きだと伝えたいとき。
そういうとき、わたしたちはもう、風を切って滑走路を走っている。
いろんなものが湧き上がってきたら、それは目には見えないけれど、まるでジェット機のようにゴゴゴゴと滑走をし始めていて、エンジンには火がついて、ぐんぐんとそのスピードを上げている。
来るべき離陸ポイントへ向けて、その速度をはやめている。
そこで、やってみたかった仕事に手を伸ばすのを止めたとき、行ってみたい場所への興味を抑えたとき、会ってみたいひとについて考えるのをやめたとき、好きだと伝える言葉を飲み込んだとき、
わたしたちはきっと、上手に減速して離陸ポイントの手前で止まったと思い込んでいるけれど、ほんとうにそうだろうか?と考えたのだ。
あのとき、ほんとうだったら「飛ぶ」しかなかったのに。
離陸決心速度はとっくに超えていたのに。
そこで起こっていたことは紛れもなく”オーバーラン”であり、ただわたしたちの賢い頭だけがそれに気づかず、オーバーランによる事故の後遺症は、ほとんどの場合わたしたちの無意識の領域と、無意識の領域に属する身体が引き受けてくれていて、ただただ、わたしたちはそれに気づいていないだけなのかもしれない。
離陸決心速度を超えたなら、必ず離陸しなければならない。
それを超えたなら、一度超えてしまったならば、もう引き返すことはできない。離陸決心速度を超えると、滑走路をオーバーランする可能性があるため、離陸中止(RTO; Rejected Take-Off)ができない。
そしてその速度には、いつだって思ったより早く到達しているのかもしれない。
だから、離陸するのはいまなんだ。離陸中止という選択肢は、ないんだよ。
その速度はただ飛ぶためのものなのだ。
わたしも、あなたも。
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