0926.あらゆることが上達していくといいな
どうしてわたしは定期的に、翻訳小説やその原文を読みたくなるのだろう? とは、わりと前々からの疑問だった。一般的に、翻訳文というものは「読みにくい」と評されるものが多い。
もちろんわたしも、なんでもかんでも読めるわけではなく、好きな翻訳家という方がいて、そのひとたちのものを選んで読んでいる。
その謎がちょっと解けたなーと思ったきっかけが、精神科医またエッセイストであり、翻訳家としても知られる著者、中井久夫の『私の日本語雑記』だった。
その本に、日本語の「末尾の多様さ」というものが描かれていて、それがおもしろかったのだ。
日本語って、「それはりんごだ。」と、表現があったとして、それをただそのまま使う、ということをしない。
「それはりんごである。」
「それはりんごだと、わたしは考える。」
「それはりんごに違いない。」
「それはりんごなのだ。」
「それはりんごなのである。」
「それはりんご以外の何者でもない。」
「それはりんごだといえる。」
「それはりんごと言っても差し支えない。」
「それはりんごでしょう。」
「それはりんごというものだ。」
「それはりんごだと思う。」
「それはりんごであるといって相違ない。」
「それはりんごだということだ。」
「それはりんごだったりする。」
「それはりんごというわけだ。」
「それはりんごだ、みたいな。」
とまあ、こんなふうに、文体やそれまでの流れ、文脈、リズムなどを考慮して、「締める末尾」のバリエーションが実に多彩に展開する言語なのだ!ということだった。
この中井氏の指摘を読んで、とても溜飲が下がった。わたしは毎日このnoteを書きながら、書いては読み、読んでは直し……と進めているわけだけれども、いちばん手をいれる部分がこの「末尾」つまり、文章の締め方だったから。
わたしがとりわけよく使うのは、「〇〇だと思った。」という締め文句なのだけれど、これを多用しすぎると、なんかクドいわりには説得力に書ける、よわっちい文章になってしまう。なので、どこで言い切り、どこでそれをやわらげる表現にするかを、けっこう微調整しているのだった。
ほら、この「〇〇しているのだった。」とかも、多用を控えていたりする。とにかく末尾のバリエーションを非常に意識しながら書いているというわけだ。このバリエーションが画一的だと、文章が突然幼稚になってくる。小学生の日記を思い出してほしい。「〇〇をしました。」「〇〇に行きました。」「〇〇だと思いました。」これですべて完結している。
これって、読んでいてわりと苦痛だと思う。
思いました、は、いい。だって思ったことを書くのだから。でも、「思いました。」「それで、思いました。」「さらに、思いました。」を延々とつづるわけにはいかない。
こうして文章はほんの少しでも幼稚さを脱し、洗練されていくのだけれども、その分「書きたいこと」「思ったこと」から遠ざかってしまうこともある。で、なにがいいたいの? と、自分が書いていても思うし、人の文章を読んでいても思う。
そんなときに、英文のそのままを読んだり、翻訳文を読んだりすると、ふわふわと浮ついていた「言葉に関するこだわり」みたいなものが、すっとその温度を下げて、頭上から自分のからだの中に戻ってくるような気がする。
「それはりんごだ。」
そうか、そうだった。それはりんごなのだから、それはりんごだ、と書けばよかったのだ、みたいな。
と、ここまで書いてきてわかったことは、わたしは欲張りなんだな、ということだった。だってきのうはきのうで「わたしは自在になるからだが欲しいんだ」と書いたばかりだ。なのに、今日は今日とて「わたしは自在になる言葉が欲しいんだ」と思っていることがわかったから。
ほんとうに、自分が一体なにがしたくてどこに行きたいのか、いつまでもさっぱりわからないままだ。でも、あらゆることが上達していくといいな、と思っている。
わたしの自在度が増していくとき、わたしのからだは変わるし、わたしの言葉は変わるし、わたしの手も目も声も変わる。わたしのつくる料理も変わるし、わたしが整える家の雰囲気も変わるだろう。わたしが手がける仕事も変わるし、わたしが出会うひとたちも変わる。
そう考えると、いつも思うのだ。「わたしの仕事は、ただ、わたし自身にかえっていくことで、自分を自在に、全方位的な存在にしていくこと」なんだな、って。
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