遠くと信号(その2・完結)
もう電車の窓の外は日暮れて暗くなってきた。遠くに灯りの点った家の窓が、ちらちらと動いていく。あそこに人がいて、夕ごはんの支度をしたりしているんだな。
そういえば朝食べたきり何も食べていないので、お腹がすいた。
今はどの辺りだろう。と、思った時、母さんが荷物を網棚から下ろした。
「次で降りるから」
それだけ言うと荷物を座席に置いて、母さんはまた窓の外をながめていた。
止まった駅は無人で、改札口には誰も居らず、降りたのもぼくら二人だけだった。
ぼんやりした蛍光灯の明かりだけが駅の存在を示してはいたが、辺りは何も無くて真っ暗に近かった。
それでも、母さんは線路沿いにしばらく歩いた後、畑や田んぼのある方へ向かった。
途中、ぽつりぽつりと民家があるが、一軒一軒が離れている。今まで住んでいた町中とはまるで違う景色だった。
10分ほど歩いただろうか、古い石の門柱にぼうっと門灯の点った家に、母さんが入っていく。
すぐに引き戸になった玄関が開いて、女の人が出迎えてくれた。どことなく母さんに似ている。会った事は無かったけれど、叔母さんかもしれない。
「疲れたでしょう。遠いから大変だったわね」
そんなふうに、やさしく声をかけてくれた。
彼女は母さんと何か一言、二言言葉を交わしてから、食事の用意があるから、部屋で荷物を下ろしてきなさいな、と言った。
ぼくたちのために用意された部屋に入ると、よその家の匂いがした。部屋になじめていないぼくたちの匂いは、少し遠慮がちに部屋のすみっこに固まることになる。
それでも、なんとか落ち着く事ができる場所があるのはやはり、ほっとする。有難かった。
玄関はそれほど大きくなかったのに、家の中は広かった。暗い庭に面した和風の部屋に食事が出されて、母さんとぼくは煮物とご飯を御馳走になった。馴染みのないよその食器に盛られた煮物は、当たり前だけれどよその味付けで、いつも食べている煮物よりずい分甘かったけれども、お腹がすいていたのと、疲れていたのとで、美味しく感じた。
食事が終わると、叔母さんの旦那さんが挨拶に来て、母さんがしばらくお世話になります、と頭を下げたので、ぼくも慌てて頭を下げた。
気楽にして下さいよ、と旦那さんは言ってくれたけれど、あまり目は合わさない。
ぼくたちはこれからここで生活してゆく事になるみたいだ。
叔母さんがお風呂に入るように言ってくれたので、持ってきた着替えを抱えてお風呂場へ。
古いタイル張りの浴槽と洗い場。浴槽の上に広い窓があった。隣に家などが無いので、ガラス窓にぽかっと外の闇がうつっている。
お湯につかるとなんだか心もとない気持ちになる。
壁の上の方にある黒っぽいシミも、今はなんだか気になるけれど、これから毎日眺めていれば、そのうち何とも思わなくなるだろう。
初めて使う石鹸の匂いもシャンプーの香りも。今日は全部が違和感だらけだけれど。
時間がたてば慣れて何とも思わなくなる。
お湯につかりながら窓を開けてみた。
遠くの真っ暗闇の中、左から右へ光の筋が動いていく。電車だ。
つい2、3時間前にはあちらに自分が乗っていて、車窓から家々に灯る明かりを見ていた。
今はこちら側に居て、そうして動いていく電車の窓灯りを見ている。
あちら側から今、こちら側の灯りを見ているだろうか。
お互いが今、
ここにいると、
合図みたいに。
ー ◎ ー ○
ー ● ー ◎
ー ○ ー ● ー
(了)