■はじめに1977年7月文部省は小学校学習指導要領の追加告示でによって、漢字の指導の際は学年別漢字配当表の教科書活字体を標準とする、と示されましたが、その活字体の基になった書体は石井中教科書で、昭和を代表する教科書体となっていましたが、その誕生当時は、ハワイの日本語教科書でしか採用されないさびしいものでした。 それがどのようにして昭和を代表する教科書の書体になっていったのか仮名を中心に石井中教科書体の変遷と時代背景を記事にしていけたらと思います。 なおこの記事では「石井中教
■はじめに写真植字機が大正末期の1924年に発明され、その8年後の1932年4月に開催された第四回発明博覧会で初めてその本格的な書体見本のカタログが配布されました。 そのカタログに載っていた書体は、明朝体、ゴシック体、楷書体、地紋記号で、カタログの最後に「新明朝書体の完成」と題して「現明朝体文字盤に更に改良を加えた新明朝体文字盤(石井中明朝体小かな)がほとんど完成したが、本説明書の植字に間に合わなかったのは大変遺憾である」(※1)との記載が石井茂吉氏よりありました。つまりそ
■はじめに現在広く知れわたっている石井細明朝体ニュースタイルかなは、1951年の細明朝体完成当初、別のデザインのかなでした。それは完成数年前に改良された教科書楷書体(旧教科書体)に非常に大きく影響を受けたものでしたが、そこからどのようにニュースタイルかなに発展していったか、当時の時代背景を考えながら記事にしていきたいと思います。 ■戦後の細明朝体の誕生まず、細明朝体が誕生した経緯ですが、時代は戦後すぐに国内諸物資の統制令が出されたことにはじまります。それにより紙やインキは
■はじめに文部省活字は1935年の第四期国定教科書、尋常小学国語読本巻五から使用がはじまった活字で、そのひらがなの字形はとても優美で柔らかく平安朝を思わせるものでした。種字は細字書家の井上千圃氏で、その後の写真植字の文字のデザイン作りにも大きな影響を与えました。 その井上氏は教科書が手書き文字の時代から一貫して版下を担ってきましたが、第三期国定教科書(旧読本 1918~1932大正期)までのひらがなの字形は、同じ書家が書いているにも関わらず第四期(新読本 1933~194
昭和初期から1960年代までの書籍に使用された書体の仮名部分をリデザインして、フリーのかなフォント素材として公開しています。 戦前戦後の様々な書籍を参考にしながら、文字盤として現存せず途絶えてしまった写植書体を中心に制作しています。何百冊の書籍のうちわずか一、二冊しか印字例のないごく小さな不鮮明な文字も参考にしていますので、筆者の主観がかなり入ったフォントとなっています。 文字を入力しているかどうかわかりやすくするために、未制作の漢字等は「〓(ゲタ)」が表示されます。 フ
■はじめに写真植字機製作株式会社(現株式会社モリサワ)はMC型写植機を1950年大阪朝日新聞社にて発表しましたが、「アサヒグラフ」はその発表当初から1962年頃まで積極的にモリサワの書体を使用してきた数少ないモリサワ初期の書体の変遷がわかる資料です。 「アサヒグラフ」で使われた写植書体の変遷を使用当初の1949年から1960年代前半まで仮名を中心にたどっていきたいと思います。 (「アサヒグラフ」の記事の内容についてはまったく触れていません。) なお、ここでは株式会社写真
■はじめに石井太ゴシック体は写真植字機が登場して間もない1932年から現在まで長きにわたり改良を重ねながら最も長く利用されてきたゴシック体です。 その人気は現在でも絶大ですが、その登場当時から現在のかたちに至るまでの改良過程や時代背景などについて記載された資料はほとんどありません。 この記事では石井太ゴシック体の仮名に注目し、その改良や時代背景について1960年頃まで追っていきたいと思います。 ■石井太ゴシック体の原点〜中明朝体オールドスタイル小かなの誕生〜太ゴシック体を記
■はじめに 黛チャイムとは、昭和43年黛敏郎氏によって作曲された0系新幹線車内チャイムです。昭和45年の日本万国博覧会を間近に控え「新幹線に合うスピード感ある未来の曲を」という理由で作曲されましたが、前衛過ぎたため乗客には不評で、わずか数年で四打点音チャイムに変わりました。 あまりにも短い期間でしか使用されなかったため、そのチャイム音を聞ける音楽メディア(音源)が不明でかつて「幻のチャイム」ともいわれていましたが、近年記録されている音楽メディアが数点見つかり、今では幻ではなく