石井太ゴシック体の変遷をたどる
■はじめに
石井太ゴシック体は写真植字機が登場して間もない1932年から現在まで長きにわたり改良を重ねながら最も長く利用されてきたゴシック体です。
その人気は現在でも絶大ですが、その登場当時から現在のかたちに至るまでの改良過程や時代背景などについて記載された資料はほとんどありません。
この記事では石井太ゴシック体の仮名に注目し、その改良や時代背景について1960年頃まで追っていきたいと思います。
■石井太ゴシック体の原点〜中明朝体オールドスタイル小かなの誕生〜
太ゴシック体を記事にするにあたって、まず中明朝体オールドスタイル小かなについて記さなければなりません。下図のように太ゴシック体が中明朝体を下敷に制作されていると思われるからです。
中明朝体オールドスタイル小かなは石井茂吉氏の書体制作の原点ともなっている書体ですが、この中明朝体は下図のように築地活版の十二ポイント活字を下敷に石井氏が毛筆の起筆、終筆の感じを加え改良し仕上げた非常に優美な書体です。※1
1929年10月、最初の写真植字機とともに「仮作明朝体」一書体の文字盤が発売されましたが、その書体はムラがあり力強さに欠けるものでした。そこで石井氏は仮作明朝体に改良を加えると同時に、印刷業界の指摘により太ゴシック体、楷書、特殊文字盤の制作もはじめました。※2
その改良された明朝体が中明朝体です。中明朝体は1932年の太ゴシック体完成時まだ未完成でしたが、ほとんど完成していたそうです。※3
中明朝体は翌年の1933年完成しました。
※1 文字に生きる 1975.11.11 写研 p26
※2 同上 p25
※3 同上 付録カタログ p16
■1932年 最初の太ゴシック体「ゴヂック体」の完成
下図は築地活版十二ポイント活字の元となった築地体後期五号仮名と、築地体のゴシック体である五号ゴチックのひらがなです。骨格が類似していることから、五号ゴチックのひらがなは後期五号仮名を下敷きに制作されたと思われます。中でも「きとはふりを」などは筆づかいを感じる特徴的なデザインとなっています。
下図は石井氏制作の中明朝体と太ゴシック体のひらがなです。こちらも骨格が類似していることから中明朝体を下敷きに太ゴシック体のひらがなが制作されたと思われます。
さらに、太ゴシック体は同じ手法で先に作られた築地体五号ゴチックの特徴的なひらがな「しじてでとどはりを」の要素を取り入れたものと思われます。
その太ゴシック体は「ゴヂック体」という名称で1932年4月の第四回発明博覧会で配布されたカタログに書体見本が掲載され完成されたことが書かれています。※5
太ゴシック体のデザインの特徴について「文字に生きる」では次のように解説されています。
また下図のように、太ゴシック体と同じく中明朝体を骨格にした細ゴシック体が1937年に、(明朝体とは線の太さが逆のため)太ゴシック体を骨格にしたファンテル体が1938年に地図用文字として制作されています。
※5 文字に生きる 付録カタログ 1975.11.11 写研 p11
■完成当初は2種類のカタカナのデザイン
また、発明博覧会のカタログには下図のように2つのデザインのカタカナが掲載されています。
1つは中明朝体を下敷きにしているカタカナ小かなのデザイン、もう1つは当時の映画や女性向け雑誌に多く使用されていた字面率の大きい活字風のカタカナ大かなのデザインです。
カタカナ小かなは中明朝体の骨格を下敷きに築地体六号ゴチック※6の要素を取り入れているのでしょうか。
カタカナ大かなは築地体五号ゴチックと類似点が多く「フブプ」でカギハライの形が違う点なども同じで、築地体五号ゴチックの要素をベースに築地体四号や当時の秀英ゴシック体など他のさまざまな書体の要素を取り入れてるのではないかと思われます。
カタカナ大かなが独特なデザインで字面率が大きいのは、カタカナを多用する名前や化粧品の広告で使用するとパラパラ感が出にくく、他の映画雑誌の活字としてもなじみがあるためでしょうか。1930年頃は海外の映画を紹介する雑誌が多く、海外の映画スターの名前もたくさん出てきました。
多くの雑誌※7で利用されたカタカナ大かなも、戦中の雑誌の統合廃刊で戦後は全く目にすることがなくなりました。独特な活字風デザインであまり人気がなかったからでしょうか。
カタカナ小かなはキネマ旬報や映画評論などで戦中から戦後まで根強く使用されました。
※6 参考にした築地体六号ゴチックは朗文堂ブログの『新年賀用見本』
※7 エスエス、寳塚グラフ、映画之友、映画評論、映画と演芸、東宝、主婦之友、婦女界、少女の友など
■1950年 当用漢字制定による改良太ゴシック体の登場
時代は戦後になり、1946年当用漢字が制定され石井氏は早速当用漢字字体表にもとづく教科書楷書体の漢字(略字)制作にとりかかり1948年かなの改良も含めて完成させました。※8
また、石井氏は太ゴシック体の改良にもとりかかりました。戦前から続く太ゴシック体のひらがな「しじてでとどはりを」は築地体の要素を取り入れているため古風過ぎて児童にはなじみにくかったのでしょうか。下図のように書写もしやすくわかりやすい筆脈の省略された教科書楷書体に近いデザインへ改良されています。(「は」は戦前に改良済)1950年6月10日印刷の雑誌「ソヴィエト映画Vol1No4」頃から使用されはじめたと思われます。
この太ゴシック体の改良は途中、下中弥三郎氏による細明朝体制作優先の督励があったためか、漢字の改良がひらがなにくらべ大変遅くなっています。※9
※8 文字に生きる 1975.11.11 写研 p56
※9 レタリング 柳亮・中田功著 美術出版社 p58 に改良太ゴシック体ひらがなと旧漢字が同一文字盤として掲載されています
■1952年 児童にも読みやすいひらがなが追加で登場
1951年細明朝体が完成されるとともに児童百科事典が平凡社から出版されました。本文は細明朝体、見出しや解説文の一部には太ゴシック体が使われていました。その太ゴシック体は戦前の改良前のものと1950年改良されたものが入り混じって使われましたが、翌年の1952年5月に発行された児童百科事典7巻から「とど」の一画目が突き出ていないものが、「しじ」は戦前の太ゴシック体が使われている文章の中でも二画でなく一画のものが登場しています。
それまでに出版された児童百科事典を読んだ関係者が、児童に読みやすい新しい事典として違和感を感じ、「しじとど」を印字できる特別な文字盤が制作されたのでしょうか。このひらがなを使った太ゴシック体はその後、児童書でよく目にするようになりました。
■1959年 教科書体と骨格を同じくした太ゴシック体大かなの登場
先述の児童百科事典は横組みで組まれてましたが、1950年当時は教科書にも横組みがどんどんふえ、横組みを考えたかなが必要になってきました。従来の教科書体のかなは筆の流れにそった草書的なかな文字でペンや鉛筆で書く文字とはかけはなれていました。そこで石井氏はペン字のタッチを生かして横組みをした場合にも落ち着いた感じになる「中教科書体」を1958年制作しています。※10
それにともなって下図のように中教科書体に合う似た骨格で制作された字面率の大きいかなの「太ゴシック体大かな」が1959年11月発行の雑誌「主婦と生活14巻11号」から登場しています。
ひらがなカタカナともにすべてのデザインが改良され、特にひらがなの「おそふゆり」とカタカナの「アソタヌネ」が顕著です。児童にもわかりやすいようハネが太くなり、清音、濁音、半濁音でデザインが統一され、フトコロも中教科書体と同様に大きくわかりやすく、見やすいデザインとなっています。
この太ゴシック体は「石井太ゴシック体」と呼ばれ、書籍や雑誌だけでなく看板や案内板、メディアにも多く使用され現在でも非常に人気のある書体となっています。
また、1961年に制作された太ゴシック体を25%太くした「特太ゴシック体小かな」に骨格が引き継がれています。
※10 文字に生きる 1975.11.11 写研 p57-58
■1959年 太ゴシック体大かな用かな書体「広告用太ゴシック」の登場
太ゴシック体大かなが雑誌「主婦と生活」で1959年11月から登場していると先述しましたが、その次号である1959年12月には下図のように「広告用太ゴシック」が登場しています。
広告用太ゴシックは見出しの多い広告用に制作されたかな書体ですが、筆者はその使用例を上記の雑誌広告以外見たことがなく、写研発行の文字盤カタログで存在していることが確認できるだけとなっています。
1959年には登場していたことから太ゴシック体大かなとほとんど同時期に制作されたものと推測されます。
広告用太ゴシックは下図のように太ゴシック体大かなの字面率をさらに大きくし、「小かな」と「大かな」両方の要素を取り入れたデザインとなっていますが、ひらがな「小かな」の要素が強くフトコロが小さいため古く感じられます。カタカナは「ア」を例に見ますと、二画目の離れ具合が「小かな」と「大かな」の中間のデザインとなっています。
この文字盤は使用例がほとんどないのに太ゴシック体大かなとともに長年カタログに掲載され、途中文字品質の改良も行われました。石井氏がお元気な時に登場した書体だからでしょうか。現存する文字盤の中で古風な太ゴシック体が印字できる貴重な書体となっています。
■1960年 デザインがすばらしい石井氏晩年制作の改良太ゴシック体小かなの登場
1959年太ゴシック体が大かなに改良された後でも太ゴシック体小かなは多く使用されどちらもに人気でした。しかし「しじとど」が改良された特別な文字盤が1952年制作されたものの、骨格は中明朝体小かなのままでフトコロも狭く、古風な印象が残ったままでした。
当時は中ゴシック小かな体も非常に人気であったためそのデザインの要素を取り入れた太ゴシック体小かなが制作されましました。1960年11月21日発行の雑誌「週刊文春」頃から登場したと思われます。全体的に1950年制作の太ゴシック体小かなのデザインを引き継いでいますがフトコロが大きくなり明るい書体となっています。
ただこの書体は一般的なカタログには掲載されず凸版印刷など使用している出版会社も限られていました。SK型万能写植機用の文字盤しか製造されなかったためでしょうか。PAVO型などに切り替わる1970年頃からこの書体による印刷物は急激にみられなくなりました。
筆者は太ゴシック体のなかでもこの書体のデザインが最もすばらしいと思っています。
なお、このデザインのかなは下図のように1961年11月に改良された中ゴシック体小かなにも引継がれています。
また、1966年頃に太ゴシック体大かなのデザインはそのままで字面率を小さくした「太ゴシック体小かな(BGKS)」がカタログに掲載される新たな文字盤として登場しています。
■おわりに ~太ゴシック体変遷の一覧表~
このように太ゴシック体は時代の流れや要望に柔軟に対応しながら変遷を続けてきたため一世紀ものあいだ多くの人々に愛され続ける書体となっているのではないでしょうか。まとめとして太ゴシック体変遷の一覧表を掲載します。
■ここで使用したかな書体について
ここで使用した太ゴシック体小かなとカタカナ大かな、1950年、1952年、1960年改良の太ゴシック体小かなはフォントファイルとしてリデザインし、下部と別記事「フリーのかなフォントを公開」にて公開しています。内容は同じです。利用規定をご覧の上ご利用ください。
※2024.1.22に長すぎるフォントファイル名を短く(「ゴシック」→「ゴ」とし、カタカナだけ大きいフォントは「カナL」としました。ご不便をおかけしまして申し訳ございません。不具合等ございましたらお手数ですがコメント等くださいませ。