石井細明朝体ニュースタイルかなの誕生について
■はじめに
現在広く知れわたっている石井細明朝体ニュースタイルかなは、1951年の細明朝体完成当初、別のデザインのかなでした。それは完成数年前に改良された教科書楷書体(旧教科書体)に非常に大きく影響を受けたものでしたが、そこからどのようにニュースタイルかなに発展していったか、当時の時代背景を考えながら記事にしていきたいと思います。
■戦後の細明朝体の誕生
まず、細明朝体が誕生した経緯ですが、時代は戦後すぐに国内諸物資の統制令が出されたことにはじまります。それにより紙やインキは粗悪なものとなり、当時導入されはじめたオフセット印刷で戦前に制作された太ゴシック体や中明朝体を使うとつぶれやすくなってしまいました。そのことから石井茂吉氏は新しい細い明朝体の制作に異常とも思えるほどの情熱を燃やしたそうです。
その石井氏が制作しようとした新しい細明朝体は「戦後生まれ変わった日本にふさわしい、清新で、民主主義、自由主義にマッチする明るい書体でなければならなかった」ことや「戦後の明るい世相を反映する優雅な繊細さが重んじられたことが「文字に生きる(※1)」で書かれています。
※1 参考文献・引用:文字に生きる p52-54 1975.11.11 写研発行
■下中弥三郎氏の影響
ちょうどその頃、平凡社の下中弥三郎氏は戦後の児童に向けた新しい事典として「児童百科事典」の出版を計画していました。下中氏は石井氏に新しい細明朝体制作の計画があることを知り、児童百科事典の出版に間に合うよう制作を督励します。
下中彌三郎辞典では「平凡社の『児童百科事典』に用いられている写真植字の文字は、それまでのものよりもずっとスマートな書体である。この書体は今日『石井文字』と呼ばれているものだが、これは石井茂吉によって作られたもので石井にこの計画のあることを知った下中が、石井を督励して『児童百科事典』の出版に間に合うよう製作させたものだ。だから『石井文字』の第一回の作品は『児童百科事典』によって世上に出たことになる。」(※2)とその経緯について書かれています。
※2 引用:下中彌三郎辞典p266 1965.6.12 平凡社 下中弥三郎伝刊行会 発行
■細明朝体完成初期のかなのデザイン
しかし、1951年に出版された児童百科事典を目にすると、その細明朝体のひらがなのデザインは、現在広く知れわたっている「細明朝体ニュースタイル」と全く違うことがわかります。さらに「細明朝体完成」と題された1951年当時のカタログ(※3)や、印刷雑誌の広告(※4)でも同様にニュースタイルのデザインと違っているものが書体見本として掲載されています。(細明朝体完成初期のかなは以下『細明朝体初期かな』と記載します)
その細明朝体初期かなは数年前に改良された教科書楷書体の影響を大きく受けたデザインでした。その理由は次のことが考えられます。
細明朝体の制作を計画していた1947年当時、石井茂吉氏は当用漢字が制定されたこともあって、戦前制作された教科書楷書体の改良にも取り組んでいました。当用漢字表にもとづく略字やかなが改良された教科書楷書体は1948年完成しました。(※5)
それと同時に石井氏は下中氏から細明朝体の制作を督励されていました。児童百科事典が細明朝体の最初の出版で「児童」にも親しみやすいことを念頭に書体を制作されたから教科書楷書体に近いデザインになったのではないでしょうか。
※3 参考文献・引用:文字に生きる p53
※4 印刷雑誌 34巻9号 1951.8.25
※5 参考文献・引用:文字に生きる p56
■細明朝体初期かなから「ニュースタイルかな」への改良
石井氏は細明朝体が完成した翌年の1952 年、大修館と大漢和辞典の原字制作の契約を結びました。大漢和辞典用の原字48,902字を制作する際、石井氏の体調を考慮し、すでにある細明朝体4,385字はそのまま使用する予定でしたが、日常使われる字体と違う要求が出されたため石井氏はすべて書き改めたそうです。(※6)
さらに石井氏は、全書を通じて一貫した書風で統一のとれたものにすれば、辞典の価値がより高くなるだろうと考え、制作予定に入っていなかった篆書を自らすすんで制作したそうです。(※7)
大漢和辞典を見てみますと篆書や細明朝体の漢字だけでなく、本文に使用される細明朝体のかなが「細明朝体初期かな」ではなく「ニュースタイルかな」になっていて、強調する文字に使用されるアンチック体も従来から多用されていた小見出しアンチック体よりも字面率がやや大きい中見出しアンチック体になっているなど大幅に変更され、上図のように「ニュースタイルかな」と「中見出しアンチック体」を含めあらゆる書体のデザインの統一性が感じられます。
なお筆者が「ニュースタイルかな」を最初に確認できたのは1953.3.25印刷の「講談社一年生文庫さるじぞう」で、「アンチック中見出し」は1954.8.25印刷の「講談社の絵本アルプスの少女」といずれも大漢和辞典の原字制作がはじまった1952年のあととなっています。
先述の児童百科事典では1954.1215印刷の18巻からニュースタイルかなが細明朝体初期かなとともに登場しています。
(ここからは筆者の推測ですが)石井氏は中明朝体の骨格を持つアンチック体と旧教科書体の影響を大きく受けた細明朝体初期かなのひらがなが同じ文章で印字されるのは書風の統一性に欠けると考え、ひらがなはアンチック体の要素を取り入れて大幅に書き改め、カタカナは全面的に細部を変更し「ニュースタイルかな」が誕生したのではないでしょうか。原字制作の際、早く完成していたひらがながデザイン性にも良かったので大漢和辞典以外に使用されるようになったのだと思います。(写真植字機研究所では1953.12.1発行の印刷雑誌の広告から「ニュースタイルかな」が使用されはじめています)
1954年10月に大漢和辞典巻一の組版がはじまり、翌年の1955年出版されました。下図は大漢和辞典巻一の抜粋ですが、もし細明朝体がニュースタイルかなではなく初期かなであった場合を参考に作成し比較しました。
下図には教科書楷書体と細明朝体初期かな、アンチック体、細明朝体ニュースタイルかなの比較を掲載しました。下図でもニュースタイルのひらがなは、細明朝体初期かなにアンチック体の要素を取り入れデザインの統一性をはかり、完成されたように見受けられます。「あ」以外ほとんどの文字で大きくデザインが変わり、細明朝体初期かなにくらべ横幅が大きく正方形に近いデザインとなっています。カタカナも「ア」と「ヲ」が変わり全体的に起筆の打ち込みが強くなっています。(1955年字面率の大きいニュースタイル大かなも制作)
このほか、大漢和辞典では下図のように太ゴシック体の漢字も大漢和辞典用細明朝体に合わせて作成(修正)されています。
※6 参考文献・引用:文字に生きる p61-65
※7 参考文献・引用:同上 p65
■数年で消えて行った 「細明朝体初期かな」
いつ細明朝体初期かなからニュースタイルかなに変更になったか記録されている資料がないので不明ですが(記事には筆者が確認できた最初期の書籍が発行された「1953年頃」と記載しています)大漢和辞典の原字制作の契約を結んだ後ではないかと思われます。
制作まもなく数年で消えて行った「細明朝体初期かな」の文字は細明朝体の拗促音としてと、(教科書楷書体の影響が大きく残っているからでしょうか)その骨格が児童書写用書体である「点線がな」に残るのみとなっています。なお、細明朝体初期かなは、細明朝体完成のカタログや写植書体の広告で一般的な「細明朝体」の名称で紹介されているので、特に児童専用かなであったとは思われません。
■ニュースタイルかなの書体ファミリーへ
細明朝体が完成されると、今度はその太さに合う太ゴシック体より少し細めの新たなゴシック体が必要となり、1954年「中ゴシック体小かな」が制作されました。
そのかなの骨格は下図のように細明朝体ニュースタイルの骨格を大きく取り入れ、ゴシック体としてのデザインの統一性から太ゴシック体の要素を一部取り入れつつ、中ゴシック体は完成されたのではないでしょうか。
「石井細明朝体ニュースタイルかなの誕生」は中ゴシック体小かなの制作にとどまらず、様々な要素を取り入れながらその後の丸ゴシック体ファミリーや各種明朝体ニュースタイルかなファミリー等の誕生に発展し「石井文字」の基礎を作りあげ印刷業界に長く大きな影響を与えた非常に重要な出来事だと思われます。