「頭でわかっていてもどうしようもない」というときには
とらえどころのない「心」というものと向き合うには、「からだのことば」を使わなければならない。と前回お話しました。
私たちがふだん話したり書いたりしている言葉、つまり「言語」ではダメなのです。
たとえば、
「頭ではわかっているのにイライラの爆発を止められない」というとき。
ある一日、小さな子どもがいて、夫もいて、自分だけが夕ごはんの支度をしている。朝から小さなハプニングがいろいろあって、仕事の疲れもあって、まだ小さいきょうだいはどちらかがぐずったり泣いたりぶったり部屋を散らかしたり、落ち着かない。夫も仕事で疲れていてソファでスマホを見ている。下の子がまた大きな声で泣き叫ぶ。そういう夕暮れ。
「いい加減にして!」と手元にあった物を投げつけて壊してしまうことが、あるかもしれません。
子どもたちはびっくりして凍りつき、夫は驚きつつ引いている。こんなことをしたら子どもたちの心にも良くない。限界まで我慢していきなりキレずに、夫には要望を上手に伝えればいい。
頭ではわかっているのに、だけどやめられない。前回は大きな声で怒鳴ってしまったし、その前は泣き出してしまった。次は子どもをぶってしまったらどうしよう……。そう思うのに、どうしても自分で自分を制御できない。
そういうときの「心」に、言語はほとんど無力です。
言語だけでなく、理性や意志や論理や筋道、合理性といったことも、同じく無力です。
激情や衝動は、私たちがふだん使っている言語や思考で抑えることはできません。たとえ抑えることができたとしても、次はもっと大きな爆発が必ずあります。
それは噴火するマグマに、本で蓋をするようなものです。
どんなに分厚い辞書でも専門書でも、噴き上げるマグマの勢いを止めることはできません。あっという間に焼かれてしまって、そこに書いてあるもっともらしいことなんて、何の役にも立たないのです。
神経系の解剖や生理でいえば、
激情や衝動のルートと、言語や思考や理性のルートは別のもので、ほとんどつながっていません。
新幹線と在来線くらい、本当にまったく別のものなのです。
激情を積んで走る新幹線に、在来線で追いついてその荷を降ろさせるようなものだと想像してみれば、
激情や衝動について「意志の力でコントロールできるだろう」とか「もっと合理的に行動すればいいのに」という意見がどれほど見当外れのものか、わかります。
新幹線を、在来線で追いかけて止めようなんて、土台無理なことです。
声すら届かないのに。
叫び出したいようなイライラをおさめるのも
全部壊してしまいたい衝動を止めるのも
すがりつきたくなる依存心も
つい手を出してしまう出来心も
肝心のことから目を背け、避けてしまうのも
そこにある「心」にアクセスするのには、言語ではダメなのです。
からだはすべてを包む入れ物、器です。
新幹線も在来線も、どちらもからだというフィールドにあります。
激情や衝動は、自律神経を伝わって全身を駆け巡ります。
思考する大脳皮質も、頭蓋骨というプールにぷかぷか浮いています。
とにかくすべては、からだという器の中で起きていることです。
考えてみれば、
私たちが「生きている」というとき、それは「からだがある」ということです。
からだがなくなったあとのことは、たとえば意識だけはもしかしたらからだなしでも存在するのかもしれませんが、今のところそれは生きている人の誰にも知りようのないことです。
とりあえず私たちは、からだという器の中で衝動を抱えたり、思考して理解しようとしたりします。からだというフィールドの中に、人生の道はあるわけです。
「頭ではわかっているけどどうしようもな」というときには、
からだの力が必要です。
ふだん使う言語ではなく、からだのことばを使って心と対話しなければなりません。
激情や衝動、絶望や落ち込み、どうしようもない苦しさや怒りというものは、からだのどこかにある「心」の活動であって、からだを通してしかアクセスできないからです。
だから
「頭ではわかっているけどどうしようもない」というときは、
どうか
からだのことばを話せるセラピストのサポートを受けてください。
からだのことばを理解し
心が訴えていることに気づくことができれば
どうしようもないと思っていた自分の問題に取り組むことができるようになります。
心の深海へは、ひとりでは潜れません。そこは光の届かない冷たい暗闇で、ひとりきりで潜るには危なすぎることもあるからです。そしてそこでは、ふだん使う言葉は話せません。
心の深海へ安全にたどり着くには、からだのことばが話せる案内人と一緒に、命綱も酸素もちゃんと準備して、少しずつ慣らしながら潜りましょう。