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わたしの履歴書(4)プロの仕事を知る


会社情報

 業  種:教育施設(公立ミュージアム)
 職  種:学芸員補助
 規  模:約10名
 在籍期間:1年間(期間限定) 

これまでの経緯

 新卒でシステム開発会社に入社するも、システム開発そのものが理解できず2年で退職。美術好きにもってこいの、公立ミュージアムのスタッフに。接客や展示解説にやりがいを感じるも、期間限定採用のため1年で退職。

学芸員補助の仕事

 姉妹ミュージアムの内勤の仕事を紹介してもらい、学芸員の補助として働くことになりました。いったん業界内部に入ると、顔がつながりコネもできるありがたさ。かねてから姉妹ミュージアム同士の交流があったため、特に緊張することもなく仕事に向かいます。今回も1年任期の仕事で、内勤のためお客様と接することはありませんが、無事に仕事が見つかったことやミュージアムで働けることで、すっかり満足していました。

 仕事内容は、図書室の書籍の整理と、展示や広報物の作成補助、アンケートの集計などです。周囲はみんな公務員。美術の先生が出向して来ているパターンもありました。落ち着いた、と言えば聞こえがいいのですが、正直なところ、入館者のあまり多くないミュージアムだったので(失礼!)、いたってのんびり、平穏な毎日。

 展示作業も手伝いましたが、作業の中枢を担うのは、運送会社の美術品輸送チームと知ってびっくり。絵画を等間隔に吊り下げたり、額のガラスが輸送中に破損しないよう養生テープを貼ったり、絵画を丁寧に梱包して箱にしまったり、丁寧で早い仕事ぶりが実にカッコよく、感動しました。今回の展覧会は運送会社A、次は運送会社Bというように、受注業者が偏らないようにしていたのは、さすが公立ミュージアム。

 後に大学で学び直し、学芸員資格を取得することになるのですが、展示実習の講師は運送会社の美術品輸送チームの方でした。私たちは普段で何気なく展覧会の絵を見ていますが、高さや幅がそれぞれ異なる額を、等間隔に展示するのは本当に難しい。しかも視線の高さは一定なので、そこに絵画の中心を合わせなくてはなりません。また、作品に損傷を与えてはいけないため、輸送中は低速で丁寧な運転をされると聞きますし、まさにプロの仕事。展覧会は美術品輸送チームが支えているといっても過言ではないでしょう。

突然の悲劇

 居心地のいいミュージアム空間で、何かに追われることもなくゆったり働くことができ、恵まれた毎日を送っていました。が、悲劇は突然訪れます。1995(平成7)年、1月17日。そう、阪神淡路大震災です。

 幸運なことに自宅も家族も無事で、ミュージアムもほとんど被害を受けなかったのですが、交通網が絶たれてしまったことや、展覧会を行えるような社会状況でなかったことにより、休館を余儀なくされました。2か月ほどの自宅待機の後、春ごろには勤務を再開したのですが、展示物はすべて収蔵庫に戻され、お客様を迎える目途の経たないミュージアムはがらんとして、本来の輝きを失ったようです。そして任期満了の時が刻一刻と迫っていました。

人生観が変わった

 この仕事はコネで見つけたものの、非常時の今、次の仕事まで紹介してもらえるとはとても思えません。また大地震を経験したことで、人生観や仕事観が変わりつつありました。
 ここ2年のミュージアムの仕事は非正規で任期も1年です。しかも給与もそれほど高くない。大災害に見舞われれば、非正規などひとたまりもありません。やはり正社員を目指さなくては。いつ命を落とすか分からないのだから、もっと精一杯生きなくては。プロにならなくては。
 そう、かつての「残業ハイ」ならぬ、「震災ハイ」になっておりました。

 そんなハイな状態のときには、ハイな仕事を引き寄せてしまうんですね。大阪を本拠地とするオーケーストラの、広報担当の募集広告に目が留まりました。広報の経験はないけれど、クラシックも時折聴くことだし、ミュージアムからの芸術つながりで挑戦してみよう!

 面接でしっかり自己アピールできたつもりが、あえなく玉砕。集団面接で一緒だった音楽業界出身の人の面接官受けがよさそうだったので、きっとあの人が採用されたんだろうなと思っていました。
 ところが1週間ほど後に連絡が。内定辞退があったので来ませんかとのこと。やった!とばかりに飛びつきました。・・・でもねぇ、新卒でもないのに、採用後すぐに辞退するなんて、実はヤバい職場なんですよ、本当は。当時は採用されたことに舞い上がり、そんなことは考えてもみませんでしたが。

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