無機質な経済圏

なんで売れてるか?の迷宮入り

数年前に斎藤幸平の「人新世の資本主義」、昨年田内学さんの「きみのお金は誰のため」が発売され、どちらもいまの時代にしてはよく売れる本として紹介されている。

経済に興味あるわたしは、もちろんどちらの著書も読んでみたのだが、正直、それら著書がそんなに売れる理由がわからなかった。一周まわってしまい?著者たちが言いたいことすらわからなかった。

売れている=ものすごい発見や、衝撃があることを期待して読みはじめたのだが、そんな稲妻が走るほどの発見はなかったからだ。むしろ、普段自分が考えているようなことが書かれていた。だから世の中的に注目されている理由がわからなすぎた。社会で絶賛されているのに、その理由がわからない、共感できない自分がアホすぎるのか、書いてあることが理解できていないのか、そこまでむずかしい著書なのか?と迷宮入りしていた。


彼らの主張

文脈だったりそれを説明するまでに行き着く過程は違ったりはするだろうけど、とてもざっくりと、彼らの主張は
(斉藤康平)資本主義が環境破壊につながる。大企業なんてけしからん。
(田内学さん)お金を払うということは商品を受け取ると同時に、誰かの労働してもらっていてその引き換えチケットであること、まさに「お金の向こうに人がいる」ということを意識することが大切である。
という認識だ。

そんなの自分にとっては当たり前すぎるし、それを思って生きてきた。その上で仕事も身の回りのものも選んできた。こんなわたしでもわかるようなことを、なんでそんなに売れ売れ著書になるのかが、不思議だったのだ。なにを今さらわかりきったことを言っているのだろう。そしてなんでそんなに新しいことでもなく、考えればわかるようなことを大人たちは称賛しているのだろか。摩訶不思議だった。ずっと。

が、それらの疑問が、やっとやっとわかってきた。つまり、大人たちはそういうことを考えて生きてないということだった。わたしが思う以上に大人たちは、自分のことしか考えてなくて、狭い世界を生きていて、心がなく生きているようだった。


自分の感覚と彼らの主張

学生の時から、社会のお金の流れを眺めていた。その過程で、資本主義というシステムのなかで環境問題や、社会問題、人権問題に影響を及ぼしているなということを感じていた。そして、その一つの原因は大企業にあると思っていたから、そういう企業で働くことは避けたいと思って当時就活していた。この時点で斎藤康平のいうようなことは感覚で思っていた。

また、神楽坂という割とこじんまりした街で、常連のお客さんがいるような居酒屋、また同業者も仕事終わりに来るような場所で働いていたおかげで、お金の循環というのは身を持って感じていた。接客業、目の前のお客さんからお金をもらうということをしていたことや、レジ締め、その日の仕入れや原価、人件費の計算をしていたのも要因の一つだとは思う。築地から配達された魚を、お店で捌いて、お客さんに出して、お金をもらう。そのお金の一部が自分の給料になって、そのお金でまた近くのお店に食べにいく。そんなことを感じていたから自身の周りのお金の流れは考えていた。つまり、田内さんのいうことも感覚的に意識して生きてきた。


自分の給料はどこからきて、どんなバリューチェーンの中に自分の企業があって、上流、下流にはどんな人がいるか、というマクロの視点にたってお金の流れを感じたり、逆にミクロの視点立って、自分がいい売り手でいたいのと同時にいい買い手でいたい、いいところにお金が流れて欲しいと思ってみたり。自分の手にするのものができる限りで環境負荷が小さかったり、ほかの人権や自然にも配慮されたもの、伝統や雇用を守るという意味では国産のもの、チェーン店よりも地元にお金をおとしたい。インスタントな大量生産大量消費は何かを失わせている気がする、ということをふつふつと考えていた。

そんなふうに、子どもと大人の間で、社会や世界から見たお金、自分自身が働く中でのお金、を想像して生きてきた。

いまやっとわかった、稲妻級の衝撃

そして、東京に出戻ったいま。
やっと”所謂”なサラリーマンをするようになって、前者の著書たちに大人たちが称賛する気持ちがわかってきた。大人たちはそんな流暢なことを考えたり、感じたり、というような世界線にいないからだ。

田内さんがどうこうではなく、「お金の向こうに人がいる」なんて当たり前すぎるし、それを考えられなく、感じられなくなったら、人として終わるなーよろしくないなーっと思ってたけど、まさに社会的にはそっちがマジョリティになっていたらしい。最近になってようやくそれがわかって稲妻級の衝撃だった。そりゃこんな世の中にはなるわ。


無機質な経済圏のなかで

学生〜前職まであたたかい経済圏の中にもいたし、田内さんがいう所謂「投資される側」(企業)にもいた上で、いまは所謂社会の大半である無機質な経済圏にいる。あたたかい経済圏から、無機質な経済圏にいるなかで、こっちの感覚を知れることはとても考え深いし新しい発見も多い。こっちはこっちの世界があって、心なくそれを眺めているのはまあそれはそれでいいのだけれど、なにか悶々としている。

というのは、今の会社で働いていることが、どう社会に対してポジティブな影響を及ぼしているのか、ということに対して、明確に答えられないからというのが一つある。

でもいままで散々こういうことを考えてきてから少し様子見というか、休憩というか、そんな期間ということで、その悶々ささえもおもしろいなと思うこととする。し、まずはそんな意味なんて考えずに目の前の仕事を一人前にこなすことができるようになるのが先決だ。

少なからず、尊敬する清水大吾さんが同じような業界にいて頑張りましょう。と言ってくれたことが現実であるならば、それを一つの糧にして仕事はしていきたいと思える🥹




無機質な経済圏に生きていて、なんでお金の流れ、循環を考えられないのか、ということについてわかってきた気がするので、それについても整理したい。

また、10年前の自分は、斎藤康平と同じく資本主義が環境問題を引き起こしているのだと思っていたけれど、それは決めつけすぎている感覚を覚えてきた。世界ってそんな答えが一つであるほど単純じゃない。それらの関係性についても改めて考えていきたい。

そして、尊敬するとかいうているものの、清水大吾さんの主張が完全にわかりきっていないので、もう一度著書を読み込みたい。とともに、山口陽平さん、山口周さん、マルクスガブリエルの新著も読みたいと思いつつ、社畜のように働くまいにちだ。

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