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何かをしてもしなくても、あなたはこの世界のたったひとつの贈り物。
7月から神戸市介護サービス協会主催の「神戸市高齢者介護士講習会」に参加してる。これは高齢者介護に携わる職員のモチベーションを上げて継続して働く意欲を引き出す事、介護の質やサービスの水準をあげる事を目的としていて、受講して認定試験に合格した人は介護福祉士の国家資格を取る為の支援金が交付されるという神戸市独自の制度。
私は高齢者福祉の仕事をしているが、正職員として働くつもりもフルタイムで働くつもりもない。介護の仕事は嫌いではないけど疲れる。精神力も体力もかなり使うのでエネルギーが奪われて、私が本当に楽しくてやりたい事に使うエネルギーが不足してしまう。社会的には大事な仕事だと思うけど、そこの線引きは譲れないし、もっと言うなら文章を書く時間や歌う時間、イベントしたりする時間を増やしていきたい。なので介護福祉士の資格を取る必要はあるのか? と思っていた。
でも、だからこそ短い時間で収入をアップしたらいいのか。国家試験を受けるには実務者研修も受講しないといけないしお金がかかる。自分の好きじゃない事にお金をかけたくないと思ってたけど、支援金が出るならやるだけやってみよう。そんな感じで。
8月2日の講義は「老年期の心身の発達と健康」で身体の仕組みの基礎や、心身機能の変化や特徴を学んだ。それが面白かった。人間の身体ってよくできてるなー! 細胞すごい! ミトコンドリアって大切なんや! ホメオスタシスすごっ! そんな感じで興味深く学べた。その中で、利用者様の欲求と支援をマズローの基本的欲求に当てはめて書いていくという課題があった。
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マズローの基本的欲求とは①生理的欲求→②安全と安定の欲求→③所属と愛情の欲求→④承認欲求→自己実現欲求という5段階の欲求。生理的な(食欲や排泄など)欲求が満たされてこそ、次なる安全や安定の欲求が生まれるといった感じで、欲求にも段階があるというもの。そこに利用者さんの欲求と出来うる支援を書くという課題なんだけど、私は何も考えずに割とスラスラ書いていたんだが、周りは案外苦戦していた。それを見て、「もしかしたら、私がふつうにやってる事って価値があるんじゃないか?」と思えて何だか嬉しかった。
私は要領がよくなくてよく注意された。「丁寧なのはいいけど時間がかかりすぎる。もう少し早くできないの?」合理的にできない、効率が悪い、相手の話を聞きすぎる、手早く動けない、利益を考えられない、生産性がない。稼ぐ事や働く事より楽しい事や満たされる事を考えてばかりいる。そういう私は資本主義社会ではあまり役に立たない感じがした。欠落してる自分に何があるのか? プラスαとしてできる事はあるのか? 何か突出してできる事はないのか? そんな風に「できない人間」という体で自分を見ていた気がする。不足感が前提だった。
それが、講義中にふと、「あ、私は特別なことをしようとしなくても、何かしようしようとしなくても、ふつうにやれてることだけでいいんだ!」と思えて、何だか一気に肩の荷が降りた気がした。
私は生活介助の業務に時間はかかるけど、ひとりひとりを観察して、何が好きか、どんなバックグラウンドがあるか、どんな希望があるか、何を楽しいと思うのかを感じて、限られた時間内でもできる事をしようとしたり、どんな歌が好きか聞いて歌をプレゼントしてきた。同じ時間をなるべくなら喜び合いたい。業務に追われてできない事も多いし、やる事が多いとイライラしてしまう事もあるけど、私は管理したいんじゃなくて、生きてる時間を一緒に楽しく過ごしたい。そう思って働いている。
だけど介護の仕事をしていると、常に人の事を考えて動くので自分がすり減って、短時間でもエネルギーが奪われて疲れ切ってしまう。本当なら動けば動くほど元気になる仕事がしたい。私は他者にエネルギーを使いすぎるのかもしれない。また、自分の不足感を補うように動くから、気を遣い過ぎて疲れ切ってしまうのかもしれない。
相手の話を聞いて、希望を叶えるにはどうしたらいいかを考えても評価されることはあまりない。どれだけ数をこなせたか? どれだけ稼いでるか? という目に見えてわかりやすいものの方が評価されやすいし、私がアレコレと考えている間に素直な人がぜんぶ持っていってしまうことは何度もあった。「じゃあ私もそうすればいいの!?」とやろうとしてもできない。どこかで感謝されてるかもしれないけど何だか寂しい気持ちになって、悲しくなることが多かった。
だからこそ、講義を受けていた時に「私がふつうにやっていることって意外と価値があるんじゃないか?」と思えたことが嬉しかったのだ。
講義を受けている神戸市介護サービス協会に、市民福祉大学福祉ライブラリーという図書館があって、たまたま見つけたこんな本を借りた。
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「世界は贈与でできている」 著:近内悠太
まだ読みかけだから、この本について詳しくは言えないけれど面白い。お金では買えない贈与。give&takeやwin-winの関係とはかけ離れた贈与。計算や狙いのない贈与。見返りがない贈与。まだ序盤だけど、私はコレがしたいんだと思った。要領の良さも、合理性も、効率も、集客も、利益も、何も考えない贈与。私が何気なくしてることは、もしかしたら贈与かも知れない。それはプライスレス。
そんな贈与を「コレか!」と感じる出来事があった。
8月5日に「勝手にどんとNight」なるイベントを開いた。
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8月5日はどんとの誕生日で、いつもはイベントに参加したり、ひとりでギターを弾いてどんとの歌を歌ってたけど、ふと思いついて。私がやりたいだけだからcharge無し! そんな思いつきに乗ってくれるhesoには頭が上がらない。
お客さんは少なかった。だけど、この日を楽しみにずっとどんとの歌を聴いて来てくれた方がいて、どんとが亡くなった際に出たQuick Japanをプレゼントしてくれた。
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そんな人が来てくれただけで本当にありがたくて嬉しかった。会場で私が持ってるHOT HOT GUMBO ’92の映像を流してみんなで観て、食べたり、話したり、踊ったりした。
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京大西部講堂のフリーコンサート。
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ただただ楽しかった。私は好きなことしかしてないし、来てくれた方たちの話を楽しく聞いて会話しただけ。どんとの歌を歌おうかなとギターと譜面台とコード譜持って行ったけど1曲も歌わなかった。それなのに参加された方から「コレ投げ銭! 楽しかったから! こんな会を開いてくれてありがとう!」とお金をいただいた。「私は何もしてへんけど!?」ってなったけど、「いいから受け取ってください」と言われて受け取った。
ああ、これが贈与だ。私は贈与で生きていきたい。何かを得る為に何かをするとかでなく、人に喜んでもらおうとさえ考えずに、ただ無心で楽しくやれること、好きに動ける贈与の世界で生きたいな。そして、実はもう、それをしてたんだと感じられた体験こそが、この日の最大の贈与だった。贈与はひとりでは叶えられない事も、その日私は思い知った。
何かをしてもしなくても、あなたはこの世界のたったひとつの贈り物。
この体感は、どんとの歌を愛して歌う私へのどんとからの贈与なのかも知れないな。
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