蝉が命を燃やしながら鳴くための一生なら、僕ら人間の一生は、なんのためのものなんだろう? ふと、 僕はそんなことを考えてしまったことがある。 自分はなんのためにこの世に生を受け、何を為して死んでいくんだろう。 どうせなら、 何かを為してから死んでいきたいものだが、 当たり前ながら、 蝉と人間はまったく違う。 実際に蝉に聞いたわけではないが、 恐らく彼らには、 人間ほどまどろっこしい “蝉関係” もないだろうし、 わざわざこうして、 「自分はなんのために
「あなたはこの人の何を知ってるんですか?」 これは私が、 精神科で統合失調症の患者さんを担当していた時に 担当バイザーから突きつけられた言葉だ。 もちろん純度100%、 私の “主観でしかないレポート” に問題があったのだが、 断言しよう。 病む人間と病まない人間、この二種類の人間を分かつ要因はメンタルの強さでは消してない。 “事実の取り扱い方” によるものだ。 患者を治療する際、 セラピストはまず、目の前の患者を “正しく” 評価する必要がある。 その
言葉なんてものは虚飾だ。 言葉を扱っている人間がこんな、 元も子もないことを言うのもどうかと思うが、 これはあながち間違いではない。 たとえば、 シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を、 あなたはご存知だろうか? この作中で、 シーザーは “親友” だったブルータス一行に暗殺されてしまうのだが、 不思議なことに、 ブルータスは死ぬ最期まで、 「ブルータスはシーザーを愛していた!」 と、言い張るのだ。 しかし、 冷静に考えていただきたい。 ブル