invulnerability(傷つきにくさ)という語が含まれる英文を日本語に訳しながら考えたこと

「へぇ~、英語って便利!!」
っていう声が間髪を入れずに返ってきた。うわ~早口で頭の回転がめちゃくちゃ速いひとの反応やな〜って思った。

それは、東京の普通電車しか止まらない駅近くの、安くて窮屈な居酒屋のカウンター席で話していたときで、わたしのすぐ右隣に座るニューヨーク出身のマイ・センセイ(my sensei)の、さらに右側の席にいた女性の声でした。

その方はいつもカップルでこの店に来ている常連さんでした。何か新しいゲームを買ったばかりとかで、「自分とパートナーのどちらがゲームが強いと思う?」みたいな他愛のない会話をしていて、センセイが「obvious!」と答えたのです。え、どういうこと?って感じでこちらに視線を送ってきたので「考えなくても見たら分かるよ、って」とわたしが日本語にしたときの反応でした。

そのときはたまたま英語が便利そうに聞こえただけで、逆に、たった一言の日本語を説明するのに他言語では一言では済まない場面も普通にあって、どっちもどっちなのですが、辞書には載ってないかたち、つまり個別の文脈に沿うかたちの日本語にしたからそう聞こえただけなのでした。

そして、どのくらい個別の文脈に寄せた日本語にするのかは場所と相手によるのですが、まぁ自分用に訳するなら、どうみても冗長な「やりすぎの私訳」でもええやんけ、という、ここまでが言い訳になります(長いんじゃ~笑)。

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とあるスピリチュアル分野の文章で「invulnerability」(傷つきにくさ)という単語を見かけて気になっていました。訳文を見てもピンとこなかったので、段落の1つだけ、やりすぎになるのを承知の上で自分が分かるように私訳してみました。

【英文は以下のウェブサイトから】
https://www.christmind.info/t/acol/course/chap25/

※わたしは「A Course of Love」も「A Course in Miracle」も勉強していませんし、中身を理解しているわけでもございません。また、日本語版がピンとこなかったのはたぶんわたしだけです。どんな本であれ翻訳を完成させることはすごいことです。

私訳:
傷つきに対する平気さ/無敵さ(invulnerability)を、〔自分の心のありかたとして〕自覚/実感することは、それを利用/乱用するつもりなら不要だが、〔その性質を適切に用いて〕奉仕(service)する場合には欠かすことができない。

傷つきに対する平気さ/無敵さを振りかざし(claim)て、運命を探るテストをしてみたり、人間性や自然の強大さへの挑戦を正当化する言い訳/口実に用いたりする者は、最終的にはそのゲームに敗れるだろう。

真の 傷つきに対する平気さ/無敵さを、自分のものとして主張(claim)できるのは、それがまぎれもなくアイディンティティの一部をなしていると心の底から認められる者だけである。そうして初めて、あなたやあなたの兄弟姉妹にとって、傷つきに対する平気さ/無敵さが有益なものとなる(will then serve you)。

恐れの克服と、愛を行き渡らせる方法にはいろいろな形があるが、この奉仕(service)はそのうちの1つである。 [acol: 25.14]

※読みづらいので適宜行間を空けています。

原文:
A realization of your invulnerability is not necessary in terms of use but in terms of service. Those who claim invulnerability and use it as a test of fate, or an excuse to challenge the mighty forces of humanity or nature, will eventually lose the game they play. True invulnerability can only be claimed by those who recognize it as part of their true identity. Invulnerability will then serve you and your brothers and sisters. Its service is one of conquering fear and allowing love to reign. [acol: 25.14]

あきらかにこの日本語は、やりすぎ(!)ではある。そして、とくにスピリチュアル分野の文章は、占いの語りがそうであるように、どこまでもフワフワしているのが特徴ですね。そうでないと読み手/聞き手が自分で勝手にある種のひらめきをその中に垣間見ることができないし、そういう余地/余白が必要なのだから。

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ところで「vulnerable」である(傷つきやすい)ことについての、わたし個人の基本的な考えは、誰ひとり傷つかない者はいない、というものです。何歳になったから、とか、特別な訓練を修めたから、とかは何の関係もない。生きていれば皆vulnerableな存在であることに変わりない。人間が人間であることの条件の1つなのだから、と思っています。

あ、書いていて急に思い浮かんだけど、このin–vulnerabilityって、スティーブン・ギリガンが言うcourage to love(愛という勇気 )と同じなんだな。

vulnerableでない存在というものはない。そして同時に、この世界をin–vulnerableな心(attitude)で生きることはどうやら可能なのだ。これを「大丈夫」という。vulnerableだけどin–vulnerable。大丈夫じゃないけど大丈夫。ひょっとするとこれは、何らかの困難たとえば病いを持ちながらも見た目上平気そうに生きられちゃうのはどうして?っていう問いに対する返事の1つなのかもしれない。説明できないけれど感じられること。自分の臓腑のその内部で。

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その昔、氣と催眠の研究家だったマイ・センセイと、毎月土曜のワークショップの後にいつもの安い店で、そんな話ばかりしていた。「立ち直って生きてゆける人とそうじゃない人との違いは?」と、わたしが問うたとき、センセイは「そう、そこが大事だよなぁ」とだけ言って、芋焼酎をうまそうに飲んでいた姿がふと思い出されるのでした。

<終わり>

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shi:moon
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