慢性の痛みの治療における多様なアプローチの重要性
慢性の痛みの治療において、多様なアプローチが重要であると言われます。今回は趣向を変えて、事例を取りあげてこの点について考えてみます。今回取り上げる夏樹静子氏の事例から学べるのは、身体的な治療だけでなく、心理的、社会的な要因も含めた包括的なアプローチが必要であるということです。また、絶食療法のような極端な方法に至る前に、患者様との信頼関係を築き、心理療法や自律訓練法などの方法を試みることが効果的であると示されています。
はじめに
慢性の痛みは、患者様の生活の質を著しく低下させるだけでなく、心理的にも大きな影響を及ぼします。今回は、著名な小説家である夏樹静子氏の慢性腰痛の事例を通して、どのようにして痛みが治癒したのかを探ります。彼女の経験は、慢性の痛みを抱える患者様にとって有益な教訓を提供します。
夏樹静子氏の慢性腰痛の事例
今回とりあげる事例は、一般的に出版されている本からのものです。この事例が、非常に興味深く、さまざまなことを学べます。
この事例の著者は、著名な推理小説作家で、テレビのサスペンスドラマの原作者としても知られていた方です。そのご本人が、慢性的な腰痛に悩まされ、ありとあらゆるといえるほどの治療法を試したが良くならず、最後は一人の心療内科医によって治療受け、見事完治するという自らの体験を、本にしています。
さすが売れっ子推理小説家だけあって、自らの体験をネタにして、非常におもしろおかしく読ませる文章です。ご興味ある方は、ぜひ読んでみてください。夏樹静子『腰痛放浪記 椅子がこわい』(新潮文庫)。読書メーターにも最近読まれた感想が記されています。以下は、この本の体験記が元になっています。
痛みの発症と初期対応
夏樹静子氏の慢性の腰痛が発症したのは、1993年1月でした。数年先までの締め切りを抱える中、突然、椅子に座っていられないほどの激しい痛みに見舞われたのです。それでも彼女は、横になったまま執筆を続けていました。
治療は、整形外科、婦人科、神経内科、精神科、鍼、灸、整体、カイロプラクティク、ペインクリニック、カウンセリング、気功、風水、霊視、墓の供養、庭の池の埋め立て(庭の池が良くないと言われた)、どんな鎮痛剤・硬膜外ブロックも効果なし。多種多様な治療を試みましたが、一向に改善しませんでした。
初期の時点で、痛みが単なる身体的な問題ではなく、心理的な要因も絡んでいる可能性が示唆されていましたが、重視されていませんでした。とうとう、仕事は休筆同然,自殺念慮をいだくまでになってしまいました。
社会的ガイドの役割
夫の先輩の親友である心療内科医との出会いが転機となりました。心療内科医への信頼感を抱くきっかけとなったのは、末期がんの友人を毎日見舞う姿を知ったことでした。この人間関係が、夏樹氏を新たな治療へと導く社会的ガイドとなりました。その心療内科医に出会うまでも、ひとつのドラマと言えます。
ちなみに、夫は出光興産会長を務めた人です。夫の先輩は、朝日新聞記者でアフリカ特派員が長かった伊藤正孝氏です。伊藤記者が末期がんで亡くなる40日前に書いたコラムで、夏樹氏が腰痛に苦しんでいることが書かれていました。末期がんの闘病で入院していた伊藤記者をほぼ毎日見舞っていた親友の心療内科医が、その記事を読んで、夏樹氏に興味を抱きました。奇縁ともいえる人間関係に恵まれていますね。
このドラマを導いた社会的ガイドの重要性を、複線径路・等至性モデル(TEM)という心理学の分析手法を用いて、分析してみました。図は、その分析結果です。TEMは、人生径路の多様性を描く質的心理学の新しい方法論を目指して開発されたもので、近年、心理学の質的研究に用いられています。
図では、痛みが発症する前後の、さまざまな要因である生活や仕事や性格や対人関係から発して治療経過までが、示されています。すべて本人の体験記を元に作成したものです。
心理療法のプロセス
当時の心療内科医は、夏樹氏の痛みを「心因性疼痛」と診断し、心理療法を提案しました。自律訓練法、行動療法、交流分析、認知療法など、様々なアプローチが試みられましたが、効果が現れなかったため、最終的には、絶食療法に森田療法という心理療法を並行して行うという治療が選択されました。
今では、「心因性疼痛」という言い方は古いものになってしまいました。逆に「心因性」という呼び方は、気持ちの問題という患者様にとってはネガティブに響くものと受け止められるようになっています。夏樹氏も、そう受け止めていたようで、自らの腰痛の心理社会的面に目を向けるまでに、非常に時間がかかっていました。
絶食療法の実施
絶食療法は、身体に急激なストレスを与えることで生体のホメオスターシスを揺さぶり、自己調整機能と自然治癒力を強力に発動させるものです。これは、痛みに向き合う過程で、意識の変革を促すことが目的とされます。それを、森田療法のあるがままという姿勢で、自分に向き合い取り組みます。
絶食療法は、医学的な管理のもとで行われ、鎮痛薬は一切使用されませんでした。そのため、一時的に痛みは激しいものとなり、夏樹氏は主治医に怒りの言葉さえ発しています。
痛みの原因と治癒のメカニズム
治療の過程で明らかになったのは、夏樹氏の痛みの根本原因が「疾病逃避」であるということです。彼女の潜在意識が、過度な仕事のプレッシャーから逃れるために痛みを作り出していたのです。治癒には、作家としての自分と決別し、本来の自分として有意義に生きることが必要でした。
事例から学べること
包括的なアプローチの重要性
夏樹静子氏の事例は、慢性の痛みが身体的な問題だけでなく、心理的、社会的な要因も絡んでいることを示しています。多様な治療法を試みる中で、心療内科医との信頼関係が築かれ、痛みの根本原因が明らかになったことが、治癒への道を開きました。
社会的ガイドの役割
人間関係が治療において重要な役割を果たすことが示されました。夏樹氏の場合、夫の親友である心療内科医との出会いが、治療への大きな一歩となりました。患者様が信頼できる医師との関係を築くことが、治療効果を高める要因となると思います。
極端な治療法の選択
絶食療法のような極端な方法は、身体的にも精神的にも負荷が大きいため、通常は最終手段として選ばれます。しかし、この事例は、絶食療法が心理的な変革を促す効果を持つことを示しています。現在では、絶食療法に代わる多様な治療法が存在します。患者様の状態に応じて、最適な治療法を選択できる条件が整えられることが重要だと思います。
おわりに
慢性の痛み治療には、多様なアプローチが必要です。身体的な治療だけでなく、心理的、社会的な要因も考慮した包括的なアプローチが、治癒への鍵となります。夏樹静子氏の事例は、信頼関係の重要性や、極端な治療法の効果を示すとともに、患者様に対する個別対応の重要性を教えてくれます。この学びをもとに、慢性の痛みを抱える方への適切な支援を提供することが求められています。