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VOl.3「あの公園から見上げるソラと、介護士シドの日常」

#事実に基づいたフィクション  #東京の公園 #健康寿命 #公園の楽しみ方 #認知症 #介護の職場 #60代の生き方 #やま #山下ユキヒサ

「あの公園から見上げるソラと、介護士シドの日常」VOl.3

(1627文字・4枚)

※この話はシリーズものです。

「恋するきっかけ」

きっかけは10月の、ある日のことだった。

その日も、夜勤明け。

公園の前を素通りできず自転車を降りた。

気持ちのいい秋晴れに誘われたのかもしれない。
池の前のベンチに腰を下ろす。

ふと横を見ると、七十代半ばぐらいの女性が、足元に目を凝らしている。

ああ。
そうか。

イチョウの実を集めていたのだ。
明るい織りのセーターに、軽めの上着を羽織り、暖かそうな厚手のスカートにサンダル履き。
きっと近所の方なのだろう。

ほんのさっき思い付いて、散歩がてら玄関を出た。
そんな感じだった。
ベンチの後方には大きなイチョウの木が黄葉に変化し、その足元にも黄色い落ち葉の絨毯が広がっている。

女性はその絨毯の上を、そろりそろりと、同色の実を注意深くさがしている。
スーパーに行き、数百円も出せばきれいな銀杏が手に入る。

しかし、こうして探し、見つけ、拾い集めるという行為を楽しんでいるようだ。
これも公園の楽しみ方。
公園にはいろんなものが落ちている。

集めた実を一手間もふた手間もかけた作業の後、やっと口に出来る。

昔の人たちはこうしたことが生活の一部だった。
季節を愉しみながら、手間を手間と思わない暮らしを営んでいた。

声をかけはしなかった。
でももし、「取れましたか?」と僕が笑顔で尋ねれば、きっと左手に持ったビニール袋を掲げ見せ、微笑み返してくれるに違いない。
「取れたわよ」と。

そんなやり取りを期待させてくれるような明るい感じの、飾らない雰囲気を持った人だった。

私の目の前を二人の女性が横切った。
八十代半ばで小柄の女性が、脇を支えられながら歩いている。
支えているのは六十代の女性。二人の会話がはっきりと聞こえた。

身体を支えられた女性は、その弱々しい足取りとは違って、意外にもその声は大きく張りがあった。

「〇〇先生はね、拾ったイチョウの実を庭に埋めておくんだって。そうすると自然に実が腐ってね、しばらくしてから掘り起こすんだって。だって、あれは匂いがねー」

銀杏拾いの女性の側を通り、その姿を目にしたから、そんなことを思い出し、口にしたのだろう。

急な風に木の葉が舞った。

少し身体が冷えた僕は、立ち上がり
歩き出す。
すると、僕の脇を七十代と思しき男性がサッと走りすぎた。

(いやー素晴らしい。がんばってますね)

心の中で、離れていくその背中に声をかけた。

それから何人かの高齢者がそれぞれのペースで歩いたり、走っている姿が目に付いた。

そんな姿に刺激を受けたからだろう。
そう言えば俺、最近運動していない。
そんな軽い気持ちだった。

ちょっと走ってみるか。
とはいえ夜勤明けの身体だし、軽くね、軽く。と自らに念を押しながら、肘を直角に曲げ、さあ、と足を踏み出した。

その直後だった。

動き出してすぐにわかったことは、動けない、ということだった。

まるで見えない誰かに取り押さえられているように身体が重い。

足が重い。
腰が重い。
腕が重い。
首が、頭が。
もう身体中が重かった。

それでも見えない力に抗いながら、前に進もうとする。

何だ、これ。
衝撃を受け、愕然とした。

走っているつもりでも、周りから見れば歩いているも同然のスピードだっただろう。

重い身体を表現するとき、よく鉛のような○○が登場する。
実際に鉛に触れたのは、小学生の高学年の頃。

海釣りで使った、あの頃の小さな手の平に、ずしんと重さを感じる鉛の塊。
あの釣りの仕掛けに使った「鉛」がふと頭に浮かんだ。
あの「おもり」が身体中に、しかも身体の内側の筋肉に溶け込んでいるかのようだった。

10メートルも行かず、僕は足を止めた。
いや、止まってしまったのだ。

10メートル?
いや、その半分だったかもしれない。

VOl.4につづく

ではまた。

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やま
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