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【無料】養魚秘録『海を拓く安戸池』(あとがき)~かん水養殖の父 野網 和三郎~

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かん水養殖の父 野網 和三郎

みなと新聞社 藤田 務 

 かん水養殖事業の産みの親といわれる野網和三郎氏はさきに安戸池の漁業権切替えをめぐって自分の手ひとつで過去三十九年間育てあげてきた安戸池の養殖事業から手をひいた。 

 しかし、氏の卓越した技術と経験はもちろん業界最高のものだけに野に置かれたままで朽ちることはなくその後各養魚場の仕事に招かれ後進の指導にたずさわっている。 

 安戸池とのつながりこそ切れたとはいえ今日の隆盛を誇る養殖事業発展への努力と功績は変わることなく高く評価され褒章を授賞すべきだとの声も業界の間で聞かれる。 

 「私は決して業界から退いたのではない、これからやるべき仕事は山積している」と以前にましてファイトを燃やす野網さんを安戸池の自宅に訪ずれ、その生いたちや横顔などを紹介してみることにした。

  野網さんの生家は、代々香川県大川郡引田町で漁業を営み、安戸池一帯の地方の名家だ。

 息子たちだけは学問をさせてやろうと父佐吉氏のはからいで三重県志摩の水産学校に入った。

 三重県のこの一帯は真珠養殖の盛んなところで、学校生活中身近に養殖事業にふれるにつれ「ああ、海からもこんな大きな金があがるんだ。畑と同じように海も耕せば収穫があがるんだ」とかん水養殖事業に首を突っ込むようになったのはそこに何か天の配在があったのかもしれない。

  休暇で帰省するたびに佐吉氏に御木本幸吉の偉大な功績を語り、「魚も養殖できるのではないか」と、田舎には珍らしく進歩的なこの親子がひたいを寄せて話し合うことが多くなった。

  そしてこの二人の目の前には、安戸池という願ってもかなえられないほど養殖に適した環境が横たわっていた。安戸池は海との間を自然にできた砂洲で仕切られ、満潮になると潮が入ってくるので、ボラやウナギなどが入り込んで生息している。

  「和三郎、あの安戸池で何とかできないか」最初にこういい出したのは、父親の方だった。

 「うん、あそこならきっとやれる」息子もすぐ返事して親子の冒険がはじまった。大正十三年のことである。

 昭和二年になって引田漁協が漁業権の免許を受け、野網さん親子がその行使者になることで話がまとまり年間千六百円という、当時では立派に家が四、五軒も建つ漁業権行使料もきまり、翌三年にはいよいよはじめての事業に着手した。

 当初はまずテスト期間、池の一部を綿網で仕切って区割し、大敷網、桝網などにより、地先で漁獲されたアジ、サバ、タイ、チヌ、ハマチなどの稚魚を試験養魚し、まず何とかやれるとの明るい見通しを得た。しかし綿網による区割は耐用年数がきわめて短く、魚が逃げ出すことがしばしばあって、翌四年はさらに改良して竹す網にかえ区割する方法に改めたのである。

 ところがこれで池内を数カ所区分すると漁場が荒廃するおそれが十分あり、また六ヵ月間に組合に払うことになっている千六百円の行使料も割高と考えられるので、永久に養魚を行うためには寄魚の行使権を買収することが得策ではないかと、組合と交渉した結果破格の大金二万一千円で行使権の買収を行なった。

 この間、収入はなく、ときどき堺の魚市にタイやハマチを出荷して入る金が唯一の収入だった。

 それもハマチで貫当たり三円五十銭と天然物を下回り、年間売上げが二百円から三百円どまりという有様で、ようやく兄弟からも「和三郎は安戸池で家を潰してしまうのではないか」と批判の声が出されはじめた。

 しかしかげに父佐吉氏のたゆまぬ理解と援助があり、野網さんはつねにはげまされた。野網さんのいうままに資金を出してやり、一方では大謀網三、四統、春にはタイ、サワラの桝網を二、三十ほどやって、生じた余力も全部安戸池に注ぎ込んだ。

 野網さんは当時をふり返り、「私も二十三歳の若僧のクセに水産庁に押しかけたり、獅子奮迅の働きぶりだったが、いつ成功するともしれないあの事業を、じっくり支えてくれた父は何といってもえらかった。その後立てがなかったら、このように成功できたかどうかわからなかっただろう」と父佐吉氏の援助が、事業への意欲をいかに盛り立ててくれたかを述懐している。

  安戸池は自然口として東水道が外海に通じている。

  ところが、唯一の水の通り道であるこの東水道が、北波を受けるたびに池口が閉鎖されて水の流通が悪くなるので、本格的な養魚を行なうため、昭和五年その浚せつとともに、いっそう水の交換をよくすべく南水門を新設した。この工費一万円。年に二、三百円の収入しかないときに、行使権買収に引続くこの出費だから、いかに二人がこの池に力を入れていたかよくわかる。

  この努力に感じたのか翌六年には、やっと国庫補助六千円が出されることになり、約六十平方メートルの冷蔵庫を設置して餌料保管に備え、現在の養魚施設とほぼ大差のない威容を備えるにいたった。

  しかし、設備は完備したが、なかなか事業として採算のとれるところまでいきつくのはむつかしかった。

  研究、成功、そして失敗、この間資金はどんどん消費された。

  しかも東水門と南水門間は自然にできた砂洲のため、波や風で四六時中変化をみせ、事業の拡大とともに危険が多くなったので、十年には土木匡救事業の補助を受け堤防を建設した。

  このころからようやく養殖業事も社会の関心を集めるようになり、八月には澄宮殿下がご台臨、また政府は認識を改め県も協力して国庫補助金八万円が支出されたが、ここまで養魚事業が発展してきたのも、地元民の協力あってのことと、ノドから手が出るほどほしい金ながら、そのうちの半分をポンと漁協に寄付している。

  養殖の方も順調に進みはじめ、ハマチ、タイなどのほかフグの蓄養も始まり、設備資金を除いて計算すれば、どうにかとんとんでいけるようになった。

  当時京阪神に出荷していたのは、ハマチ、タイ、ボラ、フグ、カキなどである。安戸池の養殖事業に着手してから十二年目の昭和十四年十二月十四日、野網さんは岡山放送局を通じて「かん水養殖事業の将来について」というテーマで二十分間放送したが、業界をはじめ世間の大きな反響を呼んだ。

  一部の学者は「寝言同然の発言」と耳をかそうとしなかったが、大方の人は純粋な気持で新らしい試みに向けるひたむきな情熱を受けとめ、励ましの声が全国各地から寄せられた。

  そのときの最後のしめくくりの言葉は「日本の沿岸漁業は近い将来において、必ず獲る漁業から造る漁業に移行するだろう」という意味のもので、まさしくその言葉は二十年後現実となって漁民たちをうるおしている。

  昭和十六年戦時統制令が発せられ、十八年からは食料事情が悪化したため、魚の餌料は全部人間回しとなって、ついに養殖事業は中断の止むなきにいたった。

  これから二十六年の世情安定期まで、実に九年に及ぶ長い休止期間を迎えるのである。

  魚類統制中も何とか養殖ハマチを企業ベースに乗るものにしようと努力を続けた野網氏は、中断寸前の十八年に一貫匁三円二十銭だった公定価格を、いっきょに五円二十銭まで引上げることに成功した。

  しかしホットしたのも束の間、戦局の悪化とともに養魚餌料を人間に回すことになったため事業は中断、養殖業者野網和三郎は一介の軍人として、また漁業者として、激化する空襲の中をぬって国民の蛋白資源確保にご奉公することになったのである。

  だが、やがて戦争が激化し、その後に国土が疲弊し敗戦を迎えても、その情熱は決して消えはしなかった。戦後の混乱がおさまるや、ふたたび養魚への情熱は以前にもまして燃えさかった。

  二十四年統制撤廃と同時にさっそく準備にとりかかり、まずハマチ六万五千尾、タイ六万尾の養殖をはじめ、大きくなるやさっそく出荷して高級魚はおろか、大衆魚にも飢えていた消費者から熱狂して迎えられ、戦前あれほど苦心した販路開拓のいとぐちが急速にひらけてきた。そしてあまりにも急速な発展は素人目にみても前途洋々たるものであり、ようやく養殖業に着目して、これを手がける業者が輩出しはじめたのである。

  ところが、二十七年にいたり野網氏にとって夢想だにしなかった大変革が起こった。漁業制度の改革で、安戸池が内水面の適用を受け漁協優先となったのである。

  このため組合員と話し合い、野網氏の個人企業であった安戸池養魚場は組合事業となり、引田漁協安戸池養殖場となった。そして各組合員の出資形式により今日までこの形が引き続かれている。

  この組合事業は、野網氏にとってかなり不満の多いものだったようだ。いぜん組合長として主導権は握っていたが、前のように自分の思うままにはできない。

  そして、この池は自分の手で開拓し一人前にしたのだという誇りもあっただろうが何よりも、もうかればわれもわれもと口を出し、損をすればそっぽを向くという組合員の利己主義の行動がたまらなかったらしい。

  かれ自身にも、第三者からみれば安戸池に執着しすぎるきらいはあったが、青年時代から安戸池一筋に身を打ち込んだ身にとって、この不満は当然のものであったろう。

  三十一年、たまたま養殖中のハマチが、日射病にかかって大量斃死し、千百万円の赤字を出したとき、だれ一人として赤字補填の増資に応じようとはしなかった。

  「これは組合長が始めた事業だから、組合長が金を借りて穴埋めすべきだ」とそっぽを向かれ、自分の財産を担保に入れやっと急場をしのいだという事件が起こってから、組合員不信の念はますます高まったと本人はこうじゅっ懐している。

  日本人は総体的に団体教育が不足で、公共心が乏しいのが通例だが、引田漁協の組合員もこの例に洩れなかったわけだ。

  しかし、以来示しつづけた「だれもやる気がなければ、オレが一人でやるんだ」という、かたくなにまでみえる野網氏の態度が、やがては組合員との間にミゾをつくり三十九年組合との決裂を招いた一つの原因となったのではなかろうか。

  養魚が組合事業に移されて以来、単に養魚のための自然環境や経済情勢との闘いだけにとどまらず、人との闘いも強いられるようになり、養魚の父といわれる野網氏もこの人との闘いには必ずしも養魚に対するような腕がふるえなかったともいえよう。

  話は横道にそれたが、戦後いち早く復活された養殖事業は、食糧不足の波にうまく乗って消費大衆にその存在をアピールし今日の隆盛の基いをつくったのである。

  戦後養殖ハマチが復活して、その刺身をはじめて口にした人が、「ああ、日本にもこんなうまいものがあったのか」と涙ぐんだというエピソードも伝わっている。敗戦に打ちひしがれた人たちにとって、別世界の食物のような養殖ハマチの出現は、あたかも日本の復興のシンボルとして、その身を、そして心を励ましたにちがいない。

  もっとも今日の隆盛をみるまで、一つの苦労もなかったわけではなかった。

  昔から養殖した魚はうまくないという観念が販売業者にも消費者にも強かった。この先入観を改めるのがまず大仕事だった。

  そこで「論より証拠」とばかり卸売会社の担当者にハマチを食べてもらい、養殖ハマチの鮮度がいかにすぐれ、天然ものにくらべて味がいいかをPRにした。

  ときには安戸池に業者を招き、池畔の観光旅館の一室にうやうやしくハマチを一尾横たえて出し、上皮をつまんでさっとめくると、中にきれいに刺身が並んでいるという、野網氏手づくりの刺身を供して一同のど肝を抜くなどの珍芸を披露したのもこのころである。

  認識が改まると近海売場での扱いもぐっとていねいになり、相場は鮮度にふさわしく、また養殖業者のもて方もうんとよくなった。

  これに拍車をかけたのが沿岸漁業の衰徴であった。工場が沿岸にどんどん立ち、土地不足を補うために埋立地が造成されて漁場は狭まる一方、漁撈技術が進んで、磯つきの魚は年々減少しはじめた。

  そして戦後十年たって日本の経済が完全に復活したころ、沿岸漁業は全く日かげの存在となり果て、かっては魚市場の花形であった近海物売場は入荷が激減し、がったりとさびれてしまっていた。そこで高級魚不足のピンチヒッターとして養殖魚の存在がいっそう大きくクローズアップされたのである。

  出荷すれば必ずもうかり、市場では下にもおかないもてよう。安戸池に関係する引田漁協の組合員全員に揃いの手拭いが大阪の市場から年に数回配られるようになったのもこのごろの話だ。

  このような好況に、どこか沿岸漁業の転業先はないかと血まなこになっていた多くの漁業者が見逃すはずがない。

  昭和三十年を境に、瀬戸内海を中心にハマチの養殖場がどんどんできはじめ、沿岸漁業の根本的救済策成ると各方面でもてはやされだした。当局までが構造改善事業として、取上げるまでに至ったのである。政府は当てにならないと、個人の力で血の出るような苦心を重ねた野網氏の三十年の努力は、ここにみごと結晶した。

  かん水養殖業が発展して淡水養殖をしのぐようになった三十六年、業者を組織化する必要があるとして全国かん水養魚協の前身である日本かん水養魚協会が結成されたとき、野網氏は全業者から推され初代会長に就任した。もはや香川県の片田舎引田の安戸池の頭領だけでなく、全国業者を卒いる野網としてその職務は重くなった。

  このごろがいちばん多忙で花やかな時代だっただろう。マスコミに追いかけられ、天皇陛下から園遊会に夫人とともに招待された。引田と神戸、東京を往復し席の暖まるヒマのない精力的な活動が続いた。何より養殖業の歴史は浅く、しなければならない仕事が山と積っていたからである。

  そして三十九年まで会長の重責を全うし漁業共済制度、販路開拓、稚魚の確保、餌料対策等八面六ぴの活躍をみせ、功なって協会の連合会改組に当たりその職を辞した直接の原因は、昭和三十九年引田漁協組合員とついに真正面から衝突し、三十九年間の長きにわたって育ててきた安戸池の事業から身を引いたことにあるが、かん水協会を盛り立てようとする業者の意欲のなさに愛想づかししたこともその一因としてあげられそうだ。

  だが野網氏は決してひっそりと引退したのではない。現に新らしい養殖業の開拓に情熱を燃やしつつある。ここでその言葉に耳を傾けてみよう。

  「私のいままでの半生は、ちょうど未開の山に登山ルートをつくる仕事だった。途中ヤブがあり絶壁あり、苦しい道づくりだったが、いまはるかふもとの方を眺めると、多くの登山者たちが列をなして、私のひらいた道を登ってきている。これで私の一つの仕事は終わった。しかしいまからはまた新らしい山の道づくりが待っているのだ。この新らしい山への道づくりは何だときかれたら次のように答えたい。多くの魚種の養殖、つまり単なるハマチ一魚種だけの養殖でなく、かって沿岸漁業の主要生産物だった魚のほとんどを養殖できるようにしたい。それでもできれば、魚種別に一つ一つ網を分けていたら、設備費が、とてもじゃないが高くつくから、これらを同じ池、同じ網の中で養殖できるようにしようという狙いのものだ。これだと、餌を上層でとるものがあり、うまく混養すると餌料面でもコストが安くなる利点があるわけだ。しかも一つの魚種が安いときも、もう一方の魚種の好市況でこれをカバーできるという二重の利点がある。もしこの企業化に成功すれば、養殖業界は第二の発展段階を迎えるだろう。すでに安戸池でテストをしてかなり成功を収めているから、ハマチの養殖事業を開拓したはどの時間は必要あるまい。」と野網氏はさらに情勢に大きな夢を托している。

  「何の事業でもパイオニアが必要だ。私はかん水養殖事業のそれをつとめることになったが、これは生まれながらに与えられた運命なのだと、喜んで従っていきたい。ただ一つ同業者に望みたいのは、だれもがパイオニアの仕事が終るまでじっと待っているのではなく、皆それぞれの分野でパイオニヤの仕事をやってくれれば、増殖事業はどれだけ向上するだろうか、一個人の力というものは限界が知れている。皆が一致して業界の発展のため進んでもらいたいものだ」と強く望む野網氏、その双眸は五十代ともみえないほど若々しく情熱に溢れている。

 功績に対して褒章を授章してほしいとの声が業界に出はじめている昨今だが、われわれもその功績だけはいつまでも讃えたいものである。

養魚秘録『海を拓く安戸池』 野網 和三郎 著〈完〉


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