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お名前をお呼びするということ

こんにちは。みなと計画の橋本です。

いきなりですが、私は”お名前”と”お顔”を覚えるのがとても苦手です。
飲食店もやっていますし、仕事柄多くの方のお世話にもなっているのですが、どうやってもこれが克服できず、方々で失礼なことをしているのではないかといつも不安になります。

そのせいで、知り合いが大勢参加するだろうと予想されるパーティやイベントは、自分にとってはお名前選手権(不特定多数の人の中から知り合いを見つけて名前をお呼びするタイムを競うという今思いついた架空の大会)の会場に放り出されるようなもので、自分の名前を呼ばれる度にドキッとしてしまいます。

覚えの悪さはファンタジー級

他にも例えば映画を見ていると、妻はある役者が他の映画で髪型や衣装が変わって出演していてもすぐに見分けることが出来るのですが、それができません。

「この役者、とても良かったね! 他に何に出演しているんだろうー」

と無邪気に話していると、妻が「はぁ?」という顔をして、

「あなたが好きな役者じゃない? 分からないでずっと観てたの?」

と、うんざりを通り越して同情の眼差しを向けてきます。

ひどいときには、一つの映画内でも同じ登場人物を見分けることが出来ません。だから、複数の主要人物が出てくるような映画だと、制作者の意図を通り越して「この監督、なかなか仕掛けてくるな!」とヒューマンドラマを勝手にミステリーに仕立てて推理し始めることもしばしばです。

さて、しかしながら、その人のことを認識して、お名前をお呼びするということをまた大事にしてもいます。

お名前をお呼びすることへのこだわり

ある大学で2回シリーズの講義を受け持ったときのことです。
参加者は8名ほどで、この講義以外でお会いすることはない初対面の方々でした。

初対面の8名のお名前を短時間で覚えるなど、ちょっとした試練です。
それでも、この8名の大学生のお名前を憶えて、講義の間もお名前を呼びながら進めたいと思いました。

講義の冒頭でその想いをお伝えをしました。
同時にそれが私にはとても困難であることも。

その上で、ボードに配席とお名前を書き、それを写真に撮り、講義中何度も間違えながらお名前をお呼びして、2回目の最後には全員のお名前をお呼びしながらのチェックアウトが出来ました。

この講義は、ある資格を取るためのコースだったのですが、それまで何度も顔を合わせていたのに、お互いの名前も知らなかったそうです。

この2回の講義で、私が何回も名前を(間違えながら)呼ぶことで、自分たちも覚えることになったとのこと。

それは同時に、心の距離も縮めることになったそうで、たった2回でこんなに仲良くなれるんだ、という感想を頂きました。

動物と名前

先日、地元紙のコラムで、人類学者で日本のゴリラ研究の第一人者の山極寿一さんが興味深いことを書かれていました。
アメリカの動物学博士のダイアン・フォッシーさんが、あるゴリラにタイタスという名前を付けていたことに触れ、

「50年代に私の恩師である伊谷純一郎や河合雅雄はニホンザルの1頭1頭に名前を付けてそれぞれの行動を記録し始めた。~中略~ 当初、動物に名前を付けることを欧米の学者たちは擬人的だと批判したが、フォッシー博士はあえてこの方法を採用した」

とその経緯を記しているのです。

そして、こうも書かれています。

「名前を付けるということは、動物を、個性を持った個体として見る行為である。人間以外の動物も、この世界でそれぞれの物語を生きていると見なす考えは日本に根強い。それは動物を人間とは違う存在として扱い、管理しようとしてきた欧米とは異なる」

学生さんではなくお名前で呼ぶ意味

まちづくり活動の現場では「学生さん」と大学生や高校生のボランティアを呼ぶことが多いですが、出来ればお名前(その人の呼ばれたい名前)でお呼びしてほしいと思っています。

もちろん、たくさん一気にやってきて、数時間のふれあいの中で識別してお名前でお呼びするのは困難でしょう(ちなみに私には極めてムリなミッションです)。だから、可能な限りそれが出来るようにコーディネートすることが同時に大事になります。

そうして名前を認識して繰り返しお呼びすることで、その人のことを確たる個として意識をできるようになり、山極氏の言う「それぞれの物語を生きている」と思えるようになります。

この、「それぞれの物語を生きている」と認識し合うことこそ、人と人との対等性を担保するものであると考えています。

ちょっとした日々の意識づけ

ちなみに私は、人のことを役職をでお呼びすることを基本的にはしません。
「〇〇先生」「市長」「会長」ではなく、誰でも「〇〇さん」とお呼びします。もちろん、年齢に関係なく。

簡単そうで実は難しく、つい肩書を付けてお呼びしそうになります。
そういうときは、相手を人間としてではなく、その役職で見ている自分に気づかされます。

日々、意識し、実行をすることでどんな相手も同じ人として見る、が訓練されていくのだと思います。

お話合いの時にチェックインをする余裕が無ければ、会話の中でその人の「物語」を知れるようなことをお聴きするのも、そうした意識づけの一つです。


とはいえ、やはり私はお名前とお顔を覚えるのが本当に苦手です。

今日も今日とて、お客さんが帰ったあとに妻に「いまの方、前にいらしてことあった?」とか「お名前なんだっけ……」とこっそり聞いては呆れられています。

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