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学びの姿勢を身につける

“非認知能力” というテーマから感じること、考えたことを何回かに分けて書いてみました。感じている個人的な違和感についてが自分でも多い気がします。ただ、書いてみて、僕が一番気になっていることは「評価ということなのかな」と思うようになりました。

OECDの定義する“スキル” には、“測定可能なもの” という要素があります。

なぜ、測定が必要なのか。測定には、数値化するという根幹のようなものがあります。つまり、「比較」をするためです。

僕が引っかかってるは、たぶん、この比較するということです。

比較することは、“知る” ということのための大事な方法ではあります。数値化した方が、絞り込むことができ、正確に比較できるようにもなります。それは、学習の進捗を本人が知ることでも、教育が上手くいっているか測ることにおいても、言えること。

でも、それは、絞り込むときに削ぎ落としたものも、後で振り返ることができてこそだとも思うのです。

比較となる評価で動機付けられる子もいれば、評価によって間違うことが怖くなり、「やってみる」ということを避けてしまう子もいます。宿題などに手をつけられず固まってしまう子。テストを見返すことなく、点数だけ見て捨てたり隠したりする子。やる気がないのでも、ズルいのでもなく、ただ評価されることが怖くなってしまっている、そんな子もたくさんいるように思うのです。

僕は、仕事柄というのか活動柄というのか、どちらかというと“やってみるのが怖くなった子“ と接することの方が多いから引っかかるのかもしれません。宿題をするのに寄り添うときや、遊びの場面ですら、上手く言えないですがその子の傷つきのようなものを感じてしまうことがあります。

“良い評価“ をもらっている子にも、その評価されている方向が、もともとのその子が望んだものと一致しているのか不安になることもあります。自分自身、競争の熱狂や他人の評価に、容易く流されてしまう人間だからの不安なのかも知れません。

だけど、まだ漠然とですが。たとえ、この社会で生きていくかぎり“評価というもの” が避けられないものだとしても、「振り返りに寄り添うこと」ができれば、少しは役に立てるんじゃないかと淡い期待をいだいています。甘いかもしれませんが。

学校教育にアクティブラーニングや“非認知能力”を取り入れようという動きに関心があるのも、画期的な教授法だと考えているのではなく、子どもの時間の一部でも振り返りになるような対話にあてられれば、子どもにもメリットがあるんじゃないかと考えているからなのだと思います。

前置きが長くなりましたが、今回は、振り返る方法や“学びの姿勢” といっているものを身につけていくのか、そこに寄り添うというはどういうことなのか、考えてみたいと思います。

具体的にとはいきませんし、まだ自分の中でも漠然としたものを言葉にしたものですが、読んでいただければ、とても嬉しいです🙇

『型稽古』の学び、繰り返し「やってみる」こと

大事だと思う「身につけたいもの」を、能力やスキルではなく、「姿勢」なんじゃないかと考えるようになったモチーフでもあるのですが、武道などの練習方法に「型稽古」というものがあります。

「型」という一連の動きを繰り返し行うというものです。

振り返る方法や、“学びの姿勢”といっているものを身につけるための練習方法、また、その練習に寄り添うことのイメージは、この「型稽古」に似たものだと思っています。

武道の型にも、「美しい」とかいった評価が行われることもあり、演武大会みたいな場で競われることもあります。ただ、そこに参加する人も美しい動きをするために、武道をはじめているわけではありません。

手本どうりに動ければ、必要な技術が身につくというものでもありません。

それでも、「型」は、強い突きや蹴りが出せるようになるための基盤となるような“姿勢” を身につけるために、昔から取り入れられている練習方法です。

指導者は、手本どおりに動けているかを指導することしかできませんが、稽古をする者は、その動きを繰り返すなかで、自分で要訣や極意と呼ばれるものに気づいて、身につけていく。そのための鍛錬です。

指導者に出来ることは限られていますが、だからこそ、その指導者自身が「極意を掴んだ達人」でなくても、鍛錬に寄り添うことができます。

学問や大学で行われている学びは、この「型稽古」に似ています。

特に、指導者の立場にある人が出来ることは、型稽古でのそれと同じことでしかないと感じます。教えれる情報としては、研究のやり方や、自身が支持する「学説」でしかありません。教授や教員とはいえ、自身も正解のない“問い” のなかで学んでいる身ではあるのですから。

学ぶ側にとっても、大学で学ぼうとするのは、大学の先生の言っていることの方がネットで得られる情報より、確かだからとか、高尚だからとかということででもないはずです。講義や書籍からインプットし、自ら考え、レポート(小論文)やプレゼンの形でアウトプットするという繰り返しの中で、研究や学びの方法や在り方を身につけていくために、わざわざ大学で学ぶわけです。本来は。

 ー 自転車の練習にも似てる

(少しマニアックな気がしてきたので、)身近な例で言い換えてみます。

型稽古での、教える人の在り方、練習の意味は、「自転車の練習」にも似ているところがあると思います。

自転車を練習するには、繰り返し実際に乗ってみて、自転車を漕いでみるしかありません。教える人も、コツをアドバイスしてみたり、支えてあげたりはできても、乗り方そのものを伝えて教えることはできません。知識として乗り方を知っても、それがそのまま乗れるようになる、ということではないからです。

武道での姿勢も、「怖がらず自転車を漕ぐ」のようなコツも、そして、“学びの姿勢” も、同じように、繰り返しの中で、自分で気がつき、身につけていくしかないものだと思います。そこで、教える側が、下手に「美しい美しくない」といった評価をしてしまえば、学ぶ側はかえって大事な気づきを見逃してしまうかもしれません。

アクティブ・ラーニングに繋げて考えてみる

繰り返しやってみて学ぶというだけでなく、教える立場の人の出来ることが限られているところは、アクティブラーニングの様子にも通じるところがあります。

アクティブラーニング手法の一つであるPBL(プロブレム・ベースド・ラーニング)において、そこで取り組む課題は、現実のなかでの課題そのものではありません。現実の課題を元に、学習用に設定された課題です。PBLの課題を皆んなで解決できたからといって、現実の社会から何か問題が消えるというわけではないのです。

いわば、PBLでの“対話”や協働作業は、シュミレーションやロールプレイの中で「解決できるようになるために、自分に何が足りないのか」を知るためのものといえます。直接的な解決方法を考え出すためというよりは。

そして、自分に何が足りないのかなど「対話や協働作業の中で得るもの」は、ひとそれぞれです。第三者が評価できるものではありません。学ぶ側の人も、評価を意識し過ぎれば、アイデアの新奇性にはしってしまったり、評価という結果だけを求めるばかりに、途中にある大事なものを見落としてしまうかもしれないのです。

 ー 比較のための評価よりもフィードバックを

学ぶ側にとっての「評価」は、自身の努力が無駄なものになっていないか、効果は出ているかを知る指標にはなります。

ただ、その学ぶ人の想いや目標が、数値化できない、測定できないものであった場合、また、社会や教育が求めるものでなく、個人それぞれであって良いものである場合なら、「比較」のための評価は必要ありません。むしろ、比較の評価は、繰り返しやってみることから人を遠ざけてしまうことがあります。

それぞれの好奇心に従ってする「学び」にとって、必要な評価とは、振り返りの機会や、振り返りを促すような「フィードバック」です。

いっても、優劣の判定や他者との比較、そういったものから離れて、フィードバックを受け止めるというのも口でいうほど簡単ではないです。寄り添う側も比較や判定ではないフィードバックを返すというのは難しいことです。成果が求められる環境にあれば、尚更です。

今、教育現場でも、非認知能力やアクティブラーニングが注目されているのは、この社会で生きていくために学力が必要なくなったからでも、学力のための勉強が無意味になったからでもないと思います。どちらかといえば、夢や将来のために学力向上は必要だけど、取りこぼされている“何か” にも注目する必要性が感じられているからではないでしょうか。

どうしても評価や比較をしないといけない場面では、どんな手法を使おうと、それまで取りこぼされてきた“何か” は、やはり、取りこぼされます。学力向上がどうしたって求められているのならば、大事なのは取りこぼさないことより、取りこぼしたものも、もう一度、ゆっくり見直す機会を設けることなんじゃないかと思います。

そして、現在PBLやアクティブラーニングの手法を研究する教育学などの分野でも、ルーブリックなど、いかに公正に“評価を行うか”が研究課題になっていたりします。

しかし、その手法の目指すものが、学力など競争力の向上ではなく、“主体的で対話的な深い学び” といったものに通じるものであるのなら、必要な“評価の方法” も、公正に測り比較することでなく、いかに雑音とならないようフィードバックを届けるかを考えなくてはいけないように思います。

まとめ、というか

一応。非認知能力と呼ばれるもの中に“学びの姿勢”と言える、測れるような類ではないけど、大切なものがあるんじゃないか。自分のだけでなく、他の人や子ども達にも、身につけたり養ったりする機会を持てるようにするには。といったことを考えてきたつもりですが、結局、ぼんやりした話にしかなりませんでした。

それと、なんとなく、昔、子どもの遊びや体験をテーマにした企画展のパネルで目にした、詩のような“言葉” が頭の中にあります。(ちゃんとした出典が思い出せないのですが)。

子どもは、はじめから100のものを持っている
ただ、その99はうばわれる。

(なんとなくの記憶)

ちょっと格好をつけて、“学びの姿勢” などとしてみましたが、能力や身につけるべき姿勢とかでもなく、子どもは「はじめから持っているもの」なのかもと。

大人が出来るのは、機会を設けるなんて大層なことでもなく、自転車の練習に付き合って、ちょっとだけ安心して繰り返せるように、声をかけたり支えたりすることだけなのでは、とも思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました🙇

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