非認知能力(≒姿勢)を身につける その2 ー非認知能力と社会情動的スキルの違い
この前書いたnoteの関連です。
少し定義や解釈の話になりますが、僕自身はが”非認知能力” というのをどういうモノだと思ってるのか、を書いておきたいと思います。
ヘックマンの“非認知能力(ソフトスキル)”
「非認知能力」という言葉そのものは、文字どおり、「(学力のように)能力として認知されてない何か」です。
この言葉が広まったのは、ヘックマンという方の研究がきっかけだったようです(西田ら,2018)。
ヘックマンの研究は、ある幼児教育プログラムを受けた子のグループと、受けてないグループを追跡調査し、受けたグループの中に大人になって社会的・経済的に成功するものの割合が多かった、というものです。
ただ、途中経過の調査において、どちらのグループも学校卒業時の「学力」に差が見られなかった。だけども、確かに幼児教育プログラムは効果があったと言える、でもでも学力は一緒、、、じぁあ、学力以外に将来を左右する「能力みたいなの」があるのか🤔 幼児教育プログラムは、そこに影響したのか?
という、仮説上の“能力”です。
OECDと社会経済における“社会情緒的スキル”
ヘックマン以前にも、非認知能力とは呼ばれてなくとも、心理学の分野では学力やIQの他に、社会生活や人生に影響を与えるモノについては研究がされていました。それが、ヘックマンの研究により、社会経済の立場にある人たちからも注目を集め、それにより一般にも知られていくようになります。
ただ、悲しいかな、今の経済と市場優位の社会で、そんな漠然としたものを育成することにお金はつきません。“教育は投資” というスタンスにおいては、効果も測定できないような教育に予算はつかないのです。
そこで、OECD(経済協力開発機構)を中心に幾つかの指標・教育目標が提言され、研究もされています。その中で、OECDが提唱しているのが、“社会情動的スキル”です。
“社会情動的スキル” の定義は、
とされています。また、学力のような認知スキルも含めて、“スキル”とは、
このような条件にあう指標として、自己効力感・動機付け・メタ認知・ソーシャルスキルなどが研究されています(他に、研究自体の蓄積は少ないようですが、創造性や持続性などの指標もあるようです)。
つまり、漠然と“あるだろう” と思われている非認知能力という大枠の中から、測定できて(②)、教育して育成できるもの((b)と③)で、社会経済に貢献する((c)と①の一部)ような能力としての「社会情動的スキル」といえる指標には、どんなものがあるかが研究されているのです。
長々と、定義的な話を書きましたが、僕が何を言いたいかというと、
ということです。
評価測定ができず、教えたり指導したり出来ない、漠然とあいまいなもの、だけどだからこそ大切なものもあると思うのです。
“社会情緒的コンピテンス(遠藤ら,2017)”
国立教育政策研究所 遠藤さんの研究(2017)を見ていると、“社会情緒的コンピテンス” と表現されています。
これは、漠然とした非認知能力のうちの、スキルやアビリティだけでなく、そうは呼べないような性格(パーソナリティ)や特性も含めて研究しよう、というスタンスです。(あと、先に引用させてもらっている西田さんらの論文にも、指導者として遠藤さんのお名前があるので、関連研究だと思います。)
性格や特性も、どれだけ持ってるかとか、伸びているかを量的に比較するということには向きません(傾向を持つ人の割合とかは測れますが)。ここには、共感性や自尊心といった社会生活や人間関係に関わるものが含まれます。
社会生活や人間関係に関わるもの、つまり、OECD定義でいうところの“個人のウェルビーイング” の側面にも関わるものにも着目しようというところで、何か近しいものを感じます。
ちなみに、OECDも、そのスキルの定義に “個人のウェルビーイング” への寄与を含めていることからも、なにも積極的に「経済の発展に貢献しない“能力” なんかいらない!」と考えているわけではないとは思います。ただ、教育や研究の方向性が経済に貢献しうるものに偏るのは、単に「社会経済」が人材育成にもなるからこそ、「教育活動」やその研究にも投資している、という仕組みだからというだけのことなのかと。
経済に貢献しない研究にもお金を出せ!とか、言うつもりはありませんが、学ぶ側や教育を受ける立場の人は、研究や研究に基づいた教育にも、その背景や傾向があることを知っておくのは大事なんじゃないかと思います。いってしまえば、教育というサービスを受ける消費者リテラシーのようなことでしょうか。
いっても、遠藤さんらの研究もあり、それも「教育政策」のプロジェクト研究として行われているのですから、僕の主張は杞憂や難癖といえるかもしれません。
ただ、遠藤さんらの研究も、読んだ感じでは、「学力(IQ)信仰に代わる、“非認知能力”信仰に再考を促す」といった意図があるように思います。そういった研究が行われるだけの背景として、“非認知能力“というものに対しても、過熱や取り違えが生じているのではないでしょうか。
「日本の教育の“非認知能力”」
少し話がそれましたが、非認知能力・社会情緒的スキル・社会情緒的コンピテンスといった様々な捉え方の中に、少し気になるものがあります。
それは、文部科学省や教育委員会などの言う“非認知能力” です。どちらも、はっきり明言しているわけでもなく、ただ僕がモヤモヤするというだけのことなのですが、これらの言う“非認知能力” を見ていると、能力とかコンピテンスとかの表現の仕方に関わらず、「学力向上にも効果がある“非認知能力”」を想定しているように感じます。
非認知能力にも力を入れて、「高い学力」を持つ人材を輩出しよう、のような何か違和感を感じます。非認知能力が高い子は、“勉強” もよくする、というような。
そもそも、“非認知能力” が注目され始めたのは、ヘックマンの関わった幼児教育プログラムが、受けた人の将来に良い影響を与えたのは確かなのに、その人たちの学力(認知能力)はほとんど差がなかったからです。
もちろん、ヘックマンが感じたものが全てではなく、非認知能力と呼ばれるものの中にも学力を向上させるモノもあるかもしれません。ヘックマンの幼児教育プログラムを受けた人も、低学年時点での学力は比較的高かったようではあります。
が、どうにもモヤモヤします。いろんな政策的な思惑や国民さまざまの要求が入り乱れてなのだろうと思いますし、学ぶ側としては「そういうもの」と思っておけば良いのですが、心配なのは教育現場です。
考え過ぎかもしれませんが、教師が「非認知能力を大切にしろ!」と言われながらも、四苦八苦したあげく、「学力が伸びてないじゃないか!」と非難を受けるようなことがあれば、また確実に教育現場が混乱する気がするのです。
まとめに代えて
言葉についてつらつら書いただけのnoteになりましたが、様々に入り乱れた政策や研究の意図に振り回されて、画期的な教育手法の導入に苦心したり、抜本的な改革とかが必要なのではなく、教師(大人)も子どもたちと一緒に対話する時間を持つのが大事なんじゃないか、という意見の理由でもあります。
いってしまえば(何様と思われるかもですが)、今必要なのは手法や改革ではなく、大人がまず“非認知能力” を身につける、ということだと思うのです。スキルといったものではなく、成果や評価から少し離れたところに気持ちをおいて、自分の教育を振り返れるような、そういったコンピテンスや行動特性のようなものを含んだものとして。
また、他の人の言葉をどう解釈したかを書いただけで、自分の言葉として使っていた“学びの姿勢” については結局かけてませんが、長くなりそうなので、別のnoteにしたいと思います。
お読みいただきありがとうございました🙇