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やり始めて分かったことがあるよ。学士殿

僕は、ソーシャルワーカーを目指しています。生業としてその専門職にあるわけでもなく、多分一生、“見習いソーシャルワーカー” を名乗っていくだろうと思いますが、いまもこれからもソーシャルワーカーを目指しています。

けど、今日からもう一つ、目指したいものができました。

「学者」です。

学問を行う者に必要なものは、
気概であって学歴ではない
熱意であって建前ではない

映画「神様のカルテ」

引用しておいて何ですが、特になにかドラマチックなことがあったわけでは、ありません。

ただ、通信制で大学院に入ることにしました。

このnoteでは、通信制の院に入って感じたこと、これから取り組んでいきたいと思ったことを、散文になると思いますが書き留めておければと思います。

よろしければ、お付き合いいただき読んでいただければ嬉しいです😄


通信制を使って大学院で学びます

これまでも、科目履修や学部でいわゆる学び直しというのやってきて、その中で、ちゃんとした「論文」というものが書けるようになりたい。と思うようになりました。

学問の世界には、様々な分野の「学会」というものがあり、「学者」はそこで査読付論文や研究発表など自身の学びのアウトプットを行います。ここでいう学者は、ほとんが教授や教員、研究職にある人たちですが、どうやら学会に入るのに資格はいらないそうなのです。

最近では、投稿者の地位によらず評価するために、査読(学会誌などに載せる前に、研究としてしっかりした内容になっているかチェックすること)は、匿名で行うというところも増えてきているようです。

教授や教員には「生徒におしえる」こと、著名な人にはメディアや書籍、またある人には自身の起業や事業が、それぞれのアウトプット(実践)の場となるのでしょう。でも、そういった立場のない、「ただの学者」には、学会のようなフィードバックの期待できるアウトプットの場というのは貴重なものなのです。

 “野良学者”を志す

学問を極めようと思うなら
農作業の合間にだってできるはずだろ!

映画「神様のカルテ」

特に大学の教員や研究職になりたいわけではありません。

だけど、自分なりの目標というか夢や理想のようなものはあります(50前のオッサンですが😅)。

野良学者、です。

哲学や歴史、郷土史研究の分野では“在野研究者” と呼ばれる方達がいますが、そのようなものです。

文系の学問は、よくメディアなどでは“それって科学と言えるのか”などと言われたりもしますが、何が良いって研究自体にはそれほどお金がかからないのが良い。なんとか食べて生きていけさえすれば、自身の“問い”を追いかけていくことができます。

教授や研究職を目指すなら、そこで高い評価を目指すなら、質の高い情報やデータを得るのにそれなりのコストがかかるやも知れません。でも、自分の人生に“学問”や“学び”を取り入れたいというだけなら、今の時代、研究のやり方さえ知っていれば、それに必要な情報くらいはお金がなくても手に入ります。

あと、必要なのは、アウトプットとフィードバックを得る場所くらい。

そのアウトプットの方法の一つとして、査読論文(学会に投稿できるような)を加えたい。これが、僕の“志望理由”です。


アウトプットとフィードバック

 ー通信制大学のデメリット

通信制大学での学びをやってみて、自分自身で感じたメリットやデメリットというのも出てきました。

学費が抑えられるが卒業が難しいといったことはよく言われていることで、僕も過去のnoteで書いてきています。

だけど、実際にやってみて一番のデメリット、と感じるのが、「通信制には、アウトプットとそのフィードバックを得る機会が少ない」ということです。

通学制ならそれがあるのかと言えば、必ずしもそうではありませんが、それでも学友と直接会う機会が毎日あり、ゼミナール形式の科目もあります。

一方、通信制では、スクーリングはあっても1科目1回程度。大学によっては、アウトプットの機会は試験のみで選択肢式のペーパーテスト、というところも多くあります。これでは、義務教育や受験勉強でのインプット偏重や講義型授業といったイメージと変わらない。モチベーションが保ちにくく、卒業や継続が難しいというところにも影響しているのではないでしょうか。

もちろん、日々の講義を開くための人件費が比較的かからず、施設のキャパの問題もないからこそ、通信制の学費は低く抑えられているものです。毎日通うという時間の拘束もないから、自分のペースで学べるというメリットにもなっています。

ただ、このアウトプットとフィードバックの少なさが、“学び” という側面での、通信制のデメリットではないかと思うのです。

そして、だからこそ実現したいのが、「学び合いのグループ」を作ることです。

アウトプットに限れば、ひとによっては事欠かないかも知れません。noteを始め、SNSだって開かれた表現の場です。表現だけでなく、また事業や仕事での実践だけでなく、アウトプットや実践というのは生活そのものにもあると思っています。

ただ、“いいね”という評価や、逆に単なる否定は、SNSでもたくさんありますが、振り返り(反省や後悔でなく)を促すようなフィードバックとなるような反応はなかなかもらえるものではありません。
互いにフィードバックを与え合う機会というのは、学会のような特殊な場を持っている人以外には貴重なものではないでしょうか。

 ー学び合いのグループ、今後のこと

実のところ、「学び合いのグループを作りたい」というのは今に言い出したことでなく、これまでも試行錯誤はしていました。自分なりにですが。

だけど、なかなか参加者を集めることはできません。

告知宣伝というのか広めるスキル。行動、手の遅さ(noteの更新頻度とか😅)。要因はいろいろあると思います。

だけど、一番大きいのは、その「場」のテーマを曖昧なまま、はっきりさせれていなかったことではなかったか。と考えています。

「どんな状況でも、それぞれの"問い"を追求できる」のが良いと思ってました。

ただ、それがグループや場づくりとなると、参加してくれた人が、そこで何を考えれば良いか、何を発信すれば良いのか、わからない。
ようは、その場のテーマがわからない、ということに繫がっていた気がします。

なので、これから。
一つには、ある程度のテーマを持って参加を呼び掛けてみること。

僕自身、ソーシャルワークを目指す中で、せっかく様々な実践者の話を聞く機会を得ました。一方、ソーシャルワーカーの中には、通信制の大学や講座を使って、社会福祉士などの資格取得を目指す人も多くいます。ここをつなぐような対話会ができないだろうか、ということを今考えています。

また、僕はこれから教育分野の通信制大学院で学びます。学部や科目履修で学んでいても、通信制を使って教員免許の取得を目指す人も結構いらっしゃるように感じました。教育分野でも協力してもらえる仲間ができれば、同じように学びと実践をつなげるような場を作っていけるのではないかとも思っています。

もう一つには、僕は学び直しというのを通じて、「学ぶことそのものの意義」のようなものを感じています。この意義をちゃんと伝わる言葉にして、参加者に呼びかけてみること。

勉強して進学したり就職したりといったことでなく、たいそうな物言いになってしまいますが、生きていくにおいて学ぶ喜びが必要とか、人が学ぶことそのものが社会に影響を与える、変えていくといったことです(正直、まだ上手く言葉にできません)。

そして、通信制の大学や大学院という仕組みは、いろんな困難に向き合っている人、受験を中心とした勉強のシステムに不協和を抱える、経済的な理由で進学をためらう、そういった状況にある人でも、“学ぶ喜び”に触れ、“学びの姿勢を身につける”ことのできる社会的な資源だと信じています。

だけど、ここで感じている“意義” は、今の社会で現実的に着目される学歴や“有利な資格”、“役にたつ専門知識” に比べれば、その価値やメリットがあまりにも曖昧で漠然としています。

これを他者や社会に訴え、呼びかけられるだけの“言葉“にしたい。学問的に言えば、『概念』として成立させたい。

これが、僕が院で学ぶ研究テーマであり、「どんな状況でも、それぞれの"問い"を追求できる」ような対話会を呼びかけるために必要だと考えているステップなのです。


入学早々、得た"違和感"

以上が、僕が通信制大学院に入ることにした理由と決意表明みたいなもので、ここからは少し蛇足かもしれないのですが、

院の入学手続きの中で、さっそく“違和感” に出会いました。

ここで言う"違和感" というのは、オリジナルな"問い" の素になるもの。だと考えています。

 ー就学における身元保証人制度

僕が、入学の手続きの中で感じた違和感は、学ぶため、というか教育を受けるために「保証人」を立てなければならなかったところです。

といっても、自分自身が頼む相手に困ったというわけではないのですが、たとえば、若い人で親や家庭の応援が得られないときはどうするのだろうと。

日々の中で「身寄りがない」というスティグマに苛まれる状況にあり、とりあえず問い合わせるとか誰かに相談するということを教えてもらったことがない。思いつかない状況にある人もいるのではないか。

仮にそんな状況にあり、学ぶ希望として通信制大学に注目したにもかかわらず、“やはり自分には学ぶ権利は認められないんだ” と、人知れず諦めてしまう人もいるんじゃないか?

正直なところこれは、僕の立ち位置からは“予想である困り感”でしかありません。僕の実践の中で、そういった立場の人とつながることができているわけでもありません。ただの想像だろと言われれば、そうです。

法律的なことや、他の分野での問題など少し調べたこともあり、別のnoteにまとめてみたいと思っていますが、この情報を必要としている人はいるのか、どうつながればいいのか。悶々としています。

 ー“違和感”と個人的な感情

悶々としていたのには、実のところもう一つ理由があります。

この違和感というのは、「オリジナルの問いの素になる」などとカッコつけてみたものの、やはり個人的な不満のようなものがあるのは確かです。

通信制に着目しているのも“どんな状況でも学べる”という思いからですし、自身の大学院も選んだのも、“排除しない”共生教育という理念に共感してというのも結構本気であります。その自身の選んだ場所が、排除してしまっているかも知れないというのは、なんというのか「嫌な感じ」がします。

もっとも、教育機関が「保証人」を取ることが悪だ、問題がある、と考えているわけでもありません。大学が保証人を取らなくても、いずれ就職の場面などで直面することです。自由契約が基本の社会ですし、保証人を求める側には、求めるだけの理由があります。「嫌な感じ」といった個人的な感情は、課題について考えて行く上で、落とし穴になるのかもしれません。

どちらかというと課題になるのは、そういったとき相談する人がいない、孤立した人がいる(かもしれない)ことでしょう。

そして、課題が明確になり、着目されなければ、その人たちに情報が届かない、アプローチすることができないということです。


最後、蛇足でまとまりのない話になりましたが、

僕は、生活の中に“学び”や学問を取り入れることの価値や意義を言葉にしていきたい。どのような状況にある人でも学び合える場を作っていきたい。これは、多分、自分のライフワークだと感じているのだと思います。

この保証人制度に感じた“違和感”にも、どのような形に帰するかわかりませんが、メインの研究テーマとは別に、いち“野良学者”として向き合っていきたいと考えています。


どんな有名な人の書いた文章なんかより、
わたしは!、、、

君の書いた論文が読みたい。

映画「神様のカルテ」

また長くなりましたが、最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました🙇



参考・引用

○浦沢直樹・勝鹿北星(1994)「MASTERキートン」『学者になる日』17巻,小学館
○深川栄洋 監督(2011)映画「神様のカルテ」,東宝(原作 夏川草介(2009)「神様のカルテ」小学館)
○上野千鶴子(2018)「情報生産者になる」筑摩書房

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