学問のクリティカル・シンキング ー批難的にならず批判的に

星槎大学の院で、はじめてスクーリングを受けました。スクーリング後レポートの課題もあり、そこで(少しカッコつけて)批判的考察という形でレポートを書いてみました。今回は、このレポートを書くときに思っていたことなどを、言葉にしてみたいと思います。

「批判」的が、「批難」的にならないように

学問でいうところの「批判的」は普段使いでの意味とは少し違うものだと思っています。

論文などでの「批判」は、“人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。(コトバンク・デジタル大辞泉)“ とは、ちょっと違います。少なくとも、誤りや欠点を責める、批難することではありません。

どちらかというと、「分析的に(考える)」という意味の方が近い。

漢字で「批判的考察」と書いた方が“論文っぽい“レポートタイトルになるというのもありますが。今回、挑戦してみたかったのは、ビジネス書などでいうところの“クリティカル・シンキング”してみよう!ということなのです。このレポート提出では、うまくいったところも、失敗したなというところもありますが、一応目指したテーマでした。

批難的にならないコツ

 ー 批判的=クリティカル≠ダメージを与える

「クリティカル・シンキング」のやり方などは、それこそビジネス書とかを読んでもらった方が、もちろん僕の我流なんかより良いです。ただ、あまり書かれていないコツというのか、心構えみたいなことは書きとめて置ければと思います。

ビジネスの場面などでは、相手の誤りを的確に指摘して、自分の意見を通すことが求められることもあります。しかし、学問などでそれをやっても、あまり意味がありません。相手が間違っていることより、重要なのは、自身の意見が論理的かどうかだったり、ちゃんとした根拠があるかだからです。

学問では「論文に書かれていること」も、査読を受けて学会に発表されたものだからといって、えらい教授が書いたものだからといって、「絶対に正しいというわけではない」ことが前提になります。どんな理論や学説でも、反論を受けたり、検証されたり、自分自身の中でも考え直したりして、積み重ねられていくものです。

また、相手を「論破すること」や「間違いを正す、批難すること」に拘ってしまったら、得られたはずの「気づき、学び」を見落としてしまうかもしれません。

正解のない問いに向き合うための、クリティカル・シンキング(批判的考察)に必要なのは、相手の誤りや欠点を見つけることより、自分自身が何故そこに疑問や違和感、引っかかりを感じるのかを考える姿勢なのだと思います。

「正解」が存在しないのに、相手と自分の、どちらの主張が「正しいのか」に時間と労力をかけていても得るものはありません。相手の誤りや欠点を見つけて、言い負かせても、特に意味のあることではないでしょう。そこから、新たな発見や気づきを見つけられて、はじめて意味がうまれるのだと思います。

たしかに、ビジネスの場では「パワーバランスを崩して、優位に立つ」ことが戦略的に必要になることがあるかとは思います。優位に立つという目的のために誤りや欠点を指摘することが必要になることもあるのでしょう。

ただ、学問や学びでその戦略や目的が役に立つことはありません。(まあ、学会の主導権争いとか出世競争みたいなのはあるでしょうけど💧単純に学びとしてはです。)

しかし、一方で、自分の疑問や違和感、それ自体を考えていくことは、そこに気づきや学び、自身が求める「何か」の種がある可能性は十分にあります。

はじめは確かな言葉にならなくても、その違和感を言葉にしていくことが、問いにつながり、違和感の理由をさぐっていくことが学問でいうところの仮説を立てることにつながるからです。

もちろん、誰しも「自分が正しい」と主張したくなるものではあります。ついつい、そのために人を批難したくもなります。

ただ、だからこそ、批判的に考えるときには、「自分の内面に目を向けること」と「客観的に見るべきなのは自分自身のこと」というのを忘れないように、「何故、違和感を感じるのか」を考えていかないといけない、と思います。

学びや人間関係、対話のなかで大切になるのは、他者と向き合う自分自身に対してのクリティカル(批判的)な姿勢なのです。

 − リフレクシブ・シンキング

ちなみに、「クリティカル・シンキング」の成り立ちには諸説があるようですが、アメリカの哲学者ジョン・デューイが最初に言ったという話があるそうです(山本,2020)。そのデューイも、最初は「クリティカル」という表現をしたけれど、後々には“reflective(反省的)“と表現をしていたと。

僕は、学問やらソーシャルワークなどに価値を感じるタイプの人間です。だからかもしれませんが、“批判的“より、こっちの“反省的“の方が本質的でいいなぁと思ってしまいます。確かに、“クリティカル“ の方がなんとなく鋭いイメージがありますが、“リフレクティブ・シンキング“ って名称なら、結構、ビジネスの場でも受け入れられたんじゃないかと思うんです。

もちろん、学問だけでなく、ソーシャルワーカーを目指す上でも、課題や状況を分析的に見るのは大事なことで、僕も学ぶなかでこういった思考法も身につけていきたいです。ただ、学問でならまだ良いのですが、ソーシャルワークのように困りごとを抱えた人の話を聞く場で、相手に「批難的」になっちゃうとあるいみ最悪です。誰かと関わる場面でこそ、自分自身に目を向けないと。

なので、できれば “リフレクティブ・シンキング“ の方で!という気持ちで、心構えのようなものを言葉にしておきたいと思いました。(『コツ』だとか、見出しはちょっと盛りましたが😅)

受けた科目、「教育経営特論」

ここからは、自分なりに“批判的考察“とタイトル付けて書いたスクーリング後レポートの振り返りです。ためしに有料記事にしてみましたが、ここまでで主張したかったことは書いてしまってます(ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございます🙇‍♂️)。それに、別段ここから何かお得な情報みたいなことを書いている、というわけでもありません。

今回、「教育経営特論」という科目を受けて、学んだことと、学んだことをどう批判的に考察してみたのか振り返りを書いています。ちょっと、「批難的」になっちゃったなという反省部分もあります。

読んでみようという方がいらっしゃったら嬉しいですが、参考文献は先にあげときますので、興味のある方はそちらを読んでみていただくのも良いかもと思います。

引用・参考文献

(前半)
○山本和隆(2020)「クリティカルシンキングの歴史秘話 そのルーツはどこにあるのか?」,Lightworks BLOG,2020/1/30
(最終閲覧2022/12/7,https://research.lightworks.co.jp/critical-thinking-history#_ftn1 )

(後半)
○広田照幸(2019)「教育改革のやめ方 ー考える教師、頼れる行政のための視点」,岩波書店
○文部科学省(2020)「コミュニティ・スクールのつくり方 -学校運営協議会設置の手引き(令 和元年改訂版)」,
(最終閲覧 2022/12/05,https://manabi-mirai.mext.go.jp/upload/tukurikataR2.10.pdf , )
○山脇直司(2004)「公共哲学とは何か」,筑摩書房

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