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幕末の天誅組・長野一郎の墓
黒船来航から明治維新までの幕末の時、南河内では一足早く尊王攘夷運動から天誅組が決起しました。奈良県五條市にあった代官所を襲撃するまでの間、南河内地区で準備をした足跡がいくつか残っています。
さて、天誅組の中に長野一郎という人がいて、その人の墓が南河内郡河南町大ヶ塚にありましたので、先日見に行ってきました。
1839(天保10)年に大ヶ塚村の医者の家、吉井寿軒の子として生まれ、本名は吉井儀蔵(三)。大坂船場にあった緒方洪庵の蘭学の私塾「適塾」で西洋医学を学びました。本来なら医者として人生を過ごすはずでしたが、勤王の思想を持つようになり、幕末の1863(文久3)年に天誅組に加わり、奈良の山奥十津川の山中で転戦します。
しかし、捕らえられ1864(元治元)年に京都六角の獄で刑死。27歳の若さでした。
平和な時代なら医者として長生きしていたかもしれないのに、幕末の混乱した時代だから27歳で命を落とすとか考えると色々考えさせられました。
なお、画像の手前には柵があるので中には入れません。