和歌山橋本散策で見つけた宗教施設群
先日からシリーズのように書いている、河内長野の山の裏、和歌山県の橋本散策。今日で一応ラストです。前回はこちらの紀の川を書きました。
今回は町中の模様を散策した内容です。そして一か所にいろんな宗教施設がありました。
橋本の駅の周辺は、古い建物がまだ残っています。それでもずいぶん取り壊されたようで、ここも廃墟のようになっていました。
河内長野は「中世の街」として、日本遺産に登録するくらいこういう古い建物の保存をしていますが、自治体によって考え方も違うんでしょうね。
その中でも歴史を感じる看板を発見しました。歴史を感じますね。
さて少しだけ歩くと、複数の宗教施設が固まっているところがありました。
調べてみると鎌倉大将軍社とありました。大将軍(たいしょうぐん)とは陰陽道に関係する神さまとかで八将神(八将軍)のひとつ。金曜星の神格だそうです。さらに調べると3年間同じ方位に留まるために三年塞がりというそうで、その時は万事に大凶であるとありました。3年間大凶なら、それって昨年からの3年間かもしれませんね。
また上についている鎌倉とは、はっきりした由来はわかりません。一説には鎌倉時代と関係があるともいわれており、鎌倉幕府執権の北条時頼との関連も指摘されています。
その大将軍社の隣にあるのが、延命地蔵です。地蔵菩薩の中でも特に寿命を延ばし、福利を与える面を特に強調したものがこのように呼ばれているとか。
ところで橋本市内にあるこの延命地蔵は、明治43年(1910)に別の場所にあった浄泉寺と言う寺院が廃寺になり、灯篭だけがこの場所に移されます。(上の写真の左に見えているもの)その際にその場所に延命地蔵を祀ったと言うことまでわかりました。
ここに石燈篭の説明がありました。昔橋本には塩市というのがあったそうで、この橋本は海から少し離れているから、塩が紀の川をさかのぼってきたことがうかがえます。
その塩市をこの橋本に誘致したのは、前回の橋本橋でも活躍した木食応其(もくじきおうご)。
天正15年(1587)に、豊臣秀吉に願い出て永代諸役免除と塩市の特権をもらったそうです。そして江戸時代初期の徳川頼宜の紀州入国(1619年)以降には、それまで月6回の塩市が12回に増やされたとありました。
これが今の橋本市の発展につながっていくんですね。
以下説明書きを引用します。
橋本市指定文化財(第三十四号)
建造物 元浄泉寺塩市の燈篭(一基)
指定年月日 昭和五十六年八月二十八日
この石燈篭は古佐田の元浄泉寺地蔵前に、正徳五年(一七一五年)に建立されたものです。
橋本町塩市仲間と書かれていることから、旧橋本町が紀の川中流の塩市として栄えた、当時をしのぶ唯一のものです。
さらにそれらの目の前には、キリスト教の教会がありました。この教会は日本聖公会橋本基督教会です。
ちなみに日本聖公会とは英国国教会の流れをくむキリスト教のプロテスタントの教会。これは新礼拝堂です。
実はこの教会を気にしていた理由のひとつに、旧礼拝堂と言うのがあると聞きました。それは登録有形文化財に指定されているものです。平屋建ての民家になっているとのこと。さらに確認してみると、どうやら奈良県吉野地方にあった農家を、明治33年(1900)に移築して教会としたそうです。
現在は牧師の住居となっているそうです。その建物大棟、隅棟には十字架を刻した鬼瓦があるとか聞いていたのですが、このときは見つけられませんでした。ちなみに旧礼拝堂は同じ敷地内にあり、恐らくは新しい教会の先に見える木造の建物だと推測されます。
ということで同じ場所に、神社(陰陽師系)地蔵(仏教系)、キリスト教会という異なる3つの宗教施設があったわけですが、最後に大切なところを紹介し忘れました。先ほどの所からほんの少し離れたところにある、應其寺(応其寺:おうごじ)は、高野山真言宗の仏教寺院です。そしてこの寺院を開基した人物こそ、秀吉の時代に交渉して特権を得た木食応其。
彼がこの寺を拠点に、橋本の町を作ったと言っても過言ではないのですね。
ということで、一応今回でいったん橋本散策シリーズを終了します。山を越えた和歌山県なので遠く感じるのですが、河内長野からは30分もかからないほどで行ける場所。またショートトリップして、さらに遠くのエリアまでより詳しく散歩したいと思います。
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