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さくらという本を読んだ。死にたくなった。でも、生きようと思った。


「お前はカッコつけやったからなぁ」

西加奈子さん著書さくらを読み終えたとき、ぼくが小学6年生だったときの担任にそう言われたことを思い出した。

ぼくはむかし、生粋のカッコつけだった(今もかもしれないが)。

小学生の頃は、雨に濡れながらサッカーをすることが本気でカッコいいと思っていた。一年中半袖を貫き通すことが最高にセクシーだと思っていた。

そんなぼくが写真にうつるとき、もちろん一般的なピースなどしない。人差し指と親指だけをぴんと伸ばし、その手をアゴのラインにそってそっと乗せる。それがこの世で一番クールなポージングだと疑うことなく、シャッターを切るその瞬間を待った。

今思えばそのどれもが「ダサい&イタい」であることに違いはないのだけど、小学生の頃のぼくはずっとそんな感じだった。そしてそのカッコつけは、中学に上がっても続いた(さすがに一年中半袖、気持ち悪いピースポーズは卒業した)。

しかし、さくらを読んで、中学生になったぼくは小学生の頃と比べ、カッコのつけ方の種類がすこし違っていたように思えた。

純粋にカッコをつけるというより、カッコ悪い自分を隠すためにカッコをつけるというか。自分が笑われない、恥ずかしい思いは絶対にしたくないという保身が常にセットになっているような、そんなカッコつけに変化したのではないかという気がしたのだ。

今考えると、うん…これは本当にあってはならないことなんだけど。

例えば十代のころ、ぼくはひとを傷つけてしまうようなことでも、自分はカッコいいのだと思いたいがための欲を満たすため、酷いことでも平気で口にしてしまう人間だった。

自分を強く見せたいのか、気に入らないことがあるとすぐに「死ね」と暴言を放つなんてザラだった。養護学級の子(今でいう支援学級)を見てはバカにして、不快なコトバをまき散らして笑ったりしたこともあった。

紹介してもらった女の子がタイプではないと、自転車の後ろに乗せるのも面倒なので、かなり距離がある駅まで歩いて帰らせたこともあった。目に入る奴はみんな嫌いで、全てのひとを見下している、そんな時期もあった。

簡単に言うと、根っからのクソ野郎だったのだ。

そんなぼくがさくらを読んで、もっとも心を突かれたのがフェラーリという目に障害があり、鉄パイプを振り回すことが日課のイカれた男が登場するシーンだ。

「目が悪い」「鉄パイプを振り回す」その二点が、本書の主要人物である一(はじめ)率いる小学生たちの好奇心をつつく。その結果、「フェラーリチキンレース」と称する遊びが生まれる。

ルールは簡単。まずフェラーリをからかう。するとフェラーリが怒る。こちらに向かって追いかけてきたフェラーリに対して、どこまで逃げずにその場に立っていられるか、というのがフェラーリチキンレースの主な概要。

フェラーリは目が悪いから公園の木に登ってしまうと自分の姿を眩ませることができる。その隠れるまでのフェラーリと自分自身の最短距離をみんなで競うわけだ。

この部分を読んだとき、ぼくはある種の懐かしみを覚えた。ぼくの人生にフェラーリは登場しなかったが、そいういった類の遊びは自分にも経験があるように思えて、きゃっきゃと楽しく遊ぶ子どもたちの姿にぼくは微笑んだ。そう、微笑んでしまったのだ。

ネタバレになるけど、この頃フェラーリをからかっていた一は、二十歳のときに事故に会い、下半身不随になり、顔もグチャグチャになる(一はハンサムで有名だった)。

そして、フェラーリをからかっていたあのときの自分のように、今度は自分が子どもに指を指され、まるで見てはいけないモノを見てしまったかのような視線を浴びせられ、走って逃げられることになる。

このシーンをみたとき、とてもじゃないが他人ごとだとは思えない自分がいたのだ。


「お前はカッコつけやったからなぁ」

そのコトバが指された小学生時代の頃のそれは、まだ良かったかもしれない。自分がカッコをつけることで、誰かを大きく傷つけることはなかったかもしれない(実際のところは分からないけど)。

でも、中学高校に上がってからの自分は、自分を誇示することでひとを傷つけてしまう。そんな領域に確実に足を突っ込んでいても尚、自分の立ち位置を優先していた気がする。

そしてそれは、同じところに毎朝陳列されるコンビニのおにぎりのように、八時になると必ずはじまるお笑い番組のように、自分の中では何かがおかしいと疑うようなひっかかりもなく、むしろ当たりまえのことのように振る舞いながら過ごしていた。

さくらを読んだぼくは、その頃の記憶がどんどんと呼び起こされた。そして、その過去を思い出すたびに、あのときの自分はどんなに愚かだったのかを感じて、苦い表情を積み重ねることしかできなかった。

無自覚だったかもしれない。いや、無自覚なら余計にタチが悪いことだ。どちらにせよ、過去の自分の恥じるべき行為のひとつひとつを思い出し、ぼくは頭を抱えることしかできなかった。

カッコつけだった自分のなかにいたのは、自分が傷つきたくないがために他人を傷つることを厭わない自分。自分のことは棚に上げて、ハリボテの自分を大きく見せることだけに必死だった自分と、死にたくなるほどダサい自分しかいなかった。

自分の過去の全てがそうだったとは思わない。でも、そういった部分があったことは確か。

一の生きる姿には、そんな自分のなかにある弱さ、狡さ、クソさ、ありとあらゆる醜さをすべて浮き彫りにされ、突きつけられた。そのことに、自分の蒔いてきた種とはいえ、辛くなった。




全ての記憶を消したくなった。


でも、それではこの本を読んだ、この本に出合った意味がない。というか、ホントに消してしまうことなどできない。

であるなら、自分の呪いたくなるような過去も、忘れてしまいたい苦い記憶も、すべて受け入れ、これからの自分の血肉にして、これからの自分ができることを探して生きていくしかないのではないか。

調子のいいことだというのは分かってる。それでも、それでもぼくが今だせる答えなんて、それ以外にないのではないかと。それが今の自分に見出すことができる、唯一の落としどころではないかと、そう思ったのだった。



これを読んで、気を悪くしたひともいるかもしれない。怒りがこみ上げたひともいるかもしれない。気持ちがただただ落ち込んだひともいるかもしれない。

誰かを幸せにできるような文章にはならなかった。フェラーリを無邪気に傷つけた罪が、一に返ってきたように、原因の全ては自分にある。だから、仕方がないのだけれど。

それでも、ずっと下を向いていても仕方がないから、これからはこれからで、切り替えて、笑って楽しんで生きていこうと思う。

過去もしっかり、受け止めながら。




クソッ。これ、公開するの怖いな。

まあでもしゃあないな。自分のせいなんやから。

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