共依存と心のコンポスト
承認欲求は生ゴミ、共依存は粗大ゴミだと思っていた。
つまりゴミで、捨てるかコンポスティング……堆肥化するか。
肥料にするときは生ゴミになってないといけない。承認欲求で痛い思いを己の身で味わって出たゴミを、今後の教えとして自分の肥料にするのだ。
いつからそう思ってたんだろう?
たぶん記憶を飛ばす前からこの捻くれたよくわからない格言はわたしの中にあって。でも、誰が言っていたとかそういうのは分からないまま。
概ねはそれで合っているところもある。
若い頃や独身時代なら尚更、この迷言は身に沁みていたんだろう。
失敗をしなければきっと浮かばない言葉だと思うから。
最近、その自分の中の概念が少し変わってきた感覚がある。
承認欲求も共依存も、あかんやつとそうじゃないやつがあるんだって、じわじわと気付き始めている。
「わたし」と「だれか」がいないと成り立たないそれは、お互いの相性が悪ければ地獄なんだ。
けれど、共依存で言えば。
「わたし」と「夫」は【良質な共依存】を生み出しているんじゃないかなと思う、この頃。
今はきっと互いに満身創痍で、色々患っているから、その色々を補い合わなきゃいけない状況下にあって。
でもそれをふたりとも嫌と思わない。むしろ、遠慮せずにもっと依存して頼ってくれよ、と各々発言したりする。
あくまで満身創痍夫婦な今のところは、なんだけれど。
ああ、こんな形もあるんだなあ、って。
「父ちゃんも母ちゃんも、なんかむずかしいこと考えてばっかやなぁ」
ごはんを食べて満足した猫が、仰向けに寝転びながら言う。あらわになった肉球を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じるのがかわいい。
「そっかなぁ?」
「あのな母ちゃん。生きてればゴミは出るんやで」
喉を鳴らしながら寝息をたてはじめた息子。言い捨てて自分はもう寝るんやなぁ、なんてことを思いながら、母は静かに笑いの息を漏らす。
猫にとって大切な睡眠の妨げにならないように、肉球からそっと離れた。
生きていればゴミは生まれる。
話題になっている、それこそコンポスティングやオフプライスショップ、フードロスへの対策……
それは物理的な話で。
猫舌なわたしは、もうぬるくなってしまったソイミルクをふぅふぅしてすすりながら、物理的なゴミのことを考えてみる。
例えば最低限のものだけで生活を楽しむ立派なミニマリストだって、ミニマリストになる術として身の回りのものを精査して、何らかの形で処分してるんだろうし。
逆に好きなものに溢れた環境で暮らすマキシマリストも、新しいものを手に入れるばかりではなくて、きっと要らなくなったものを手放してる。
そんなことを言い始めるときりがなくなってしまうよなあ。ひとり喉の奥で笑って猫を見ると、彼はゴロンと寝返りをしたところだった。
ただ、まるが言っているのはきっとそうじゃなくて、「見えないゴミ」のことなのだろうと思うんだ。
先に言っていたような、承認欲求は生ゴミ、共依存は粗大ゴミのような。
他人への悪口や愚痴は排気ガス、自己嫌悪は不燃ゴミ。
失恋や失ったものへの想いなんかは、なんだろう?いつか何かの形で誰かのもとに辿り着くだろう資源ゴミかな。
息子よ。
むずかしく考えてしまうんだよ、ヒトと言う生き物は。
それでも今わたしとなおさんは、心地よい共依存になっていて。粗大ゴミはまだ生まれていない。
あと、わたしが承認欲求を発して生ゴミが出たとしても、彼がそれを心のコンポストに入れて混ぜて、毒素を抜いて栄養を作ってくれる。
それはもしかしたら、いつかわたしのためか、夫婦のために生まれる新しい芽の堆肥になったり。
心というものはとてもとても厄介で、扱いにくくて、脆くて。
ヒトは特に複雑化した心を持ってしまうのが性だから。ひとりずつ育て方も大きさも色や形も違うのが心だから。
本当に面倒くさいんだけれど、なんだかんだ愛しい。
わたしのそれにも、きっといつの日か小さな芽が顔を出すんだ。なおさんが作ってくれた栄養を取り込んで。
ある日突然ぴょこっと出てくるかもしれない、どんな形の芽かもわからない。それが少し楽しみ。
わたしもなおさんの心のコンポストになれているんだろうか。
たぶんわたしより遥かに優しくて、自然とそれができてしまう彼には及ばない。まだまだ未熟なんだろうけれど。
そんな彼も抱えている毒素なんかはあるのだから、うまく栄養に変えて、痩せた心の器に注いであげられるような人間になりたい。
ソイミルクが空になったマグカップの底をなんとなしに見ながら、
そんな人間になれたならきっと、わたしたちは満身創痍じゃなくなったあとも素敵な共依存を築けるんじゃないか。
なんてことを思ったりした。
『共依存と心のコンポスト』