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あかぎれからまそほ

あかぎれは、手指のよく動かしたり物に触れる繊細なところにできるから地味に痛い。
わたしの場合どちらかと言うと、指の内側、手のひら側の関節や腹に出来ることが圧倒的に多かった。


「いだぁ……、」
右手人差し指の腹にある治りかけのあかぎれ。そこにちょうど食い込む形で、棚の角に当ててしまった。
先週の寒さが嘘のように、暖かな陽射しが窓とカーテンを透過しはじめた日の午前のこと。掃除中に情けない声が出た。

けっこうぐぐっと当たって、なかなかに痛い。
ハンディモップを足元に置いたままにすると猫がたちまちじゃれついてくるから、一旦掃除道具入れに戻す。痛い指の腹を見ると、患部から血がじんわり滲み出てきていた。
ああ、せっかく治りかけだったのに。短い嘆きの息が漏れる。

年中手荒れしているわたしにとってはすごく珍しく、この乾燥の時季にあかぎれがひとつだけ。人差し指のこれだけ。
予備軍のひび割れは他にあるんだけれど、この人差し指の傷口が塞がったらネイルを替えようかと思っていたところだったのに。
いつもセルフネイルで、痛かったり沁みたりを覚悟の上で決行している。
今回はこのひとつだけのぱっくり割れがなくなれば幾段と楽に行えるはずだったのだ。

「傷をえぐってしまった……」
いつものように痛いのを我慢しながら爪を替えるか、もう少し様子見するか……
「母ちゃん、何ひとりで騒いでるん」
猫がソファを陣取って寝そべりながら間の抜けた声で言う。ついさっきまで同じ場所で勝手におもちゃと格闘していたのに、もう飽きたか疲れたか。

「指怪我してるんやけど、また痛めつけちゃって」
「舐めたらええやん」
いやそんな息子、きみはそれでいいかもなんだけどさ。
「んー……とりあえず血が出たままだと、まるをよしよしできないからさ。絆創膏しとこかな」
聞いてるかどうかもわからない自由な息子が乗るソファを横切って、救急箱になっている大きなバニティポーチが置いてあるところまでほんの数歩。

ちなみにこの黒のバニティポーチは昔わたしがコスメ大好き人間だったときの名残り。一軍コスメたちがぎゅうぎゅうに収まっていた宝箱だったなぁ、と改めて懐かしみながら、血が変な所に付かないように気をつけつつ手を伸ばした。

指先にちょうどの角度で、背後の窓から陽が差し込んでいた。明るく照らされた指にぷっくり乗るその赤を、
真朱まそほ】だ。
………と思った。

その日が晴れで太陽の光が暖かい色だったからかもしれない。
光を取り込んだひと粒の血が、すごくきれいな真朱色に見えたのだ。
しんしゅ、とも呼ぶその色は、あかの中でも純度の高い、交じり物がない名前どおり真の朱のことだった。

ああそうか。
わたしは今、わたしの血は、こんなにきれいになっていたのか。
鼻の奥が沁みて涙が出そうになったとき、それより前に指先の傷口から真朱がひと筋垂れた。慌ててテーブルの上のティッシュを取っておさえる。
白が吸い込んだ血の色は、酸化して今さっき見たものよりも黒がかっている感じがした。

でも、あれはきれいな血だった。
確かに己の中からこぼれたものだった。



高校卒業すぐにヘアサロンで働いていた頃に、いわゆる薬負けというものをして。わたしは季節問わず肌荒れと向き合う年月を送ってきた。
それこそもう生きてきた年数の半分になる。
患部が痛くて指に力が入りづらかったり、薬や保湿クリームを塗るとしばらく何も触りたくなくなったり。傷口がきれいになる頃には、どこかの指がまたひび割れていて、後にあかぎれになる。

付き合いは長いんだけれど、うまく付き合えていたとは言えなかった。ないなら、ないほうが良いものだし。
ひとり暮らしのときも結婚してからも、水仕事はいつだってゴム手袋をつけてきた。たぶん、ゴム手袋の何らかの成分も肌に合わなくて結局いつまでも治らないのに、そんな違和感を脳裏に貼り付けながらも使い続けてきた。
そんなおかしなループから抜け出すのは呆気なく簡単だった。と言ってもキッチンの水仕事だけなのだけれども。お風呂掃除はカビ防止の少し強い洗剤だから手袋は必須だ。

食器洗い用の洗剤を、自然由来の成分のものに変えてみた。
これが不思議なんだけれど、あかぎれがある箇所に洗剤が触れてもそんなに痛みを感じない。もちろんスポンジをぎゅっと握ったりするときに傷口が当たると痛い。それはそう。あかぎれがその洗剤のおかげて治ったりすることも、当然ない。
でもわたしのストレスが少し軽くなったのは確かで、当分食器洗いは手袋なしでやってみようと決めた。

水やお湯だけでも荒れる体質になってしまっているから、完全に防ぐのは難しい。だけど今ひび割れがこの人差し指ひとつだけのように、減ってきているのも確かだ。
ゴム手袋で保護していたつもりのやり方より、今のほうが手と心に負担がかかりにくくなっている。


「ずいぶん減ったんやで、これでも」
誰に言うでもなくぼやきながら、絆創膏を巻きつける。不注意で傷を再開発してしまったけれど、ネイルを替えれるようにはやく治そう。
次に塗りたい色は決まってるんだ、それを楽しみに保湿も頑張ろう。


血の色が暗いとか明るいとかはいろんな理由があって、
例えば採血するときの血は静脈からとる。静脈の血は黒っぽい。あとは今みたいに酸化すると黒とか茶色っぽくなったり。

ただそれだけのことなんだけれど、【うつ】の症状がひどく重かった時にされた採血で、注射器に入っていく己の血液は真っ黒に見えた。
機能性ディスペプシアで夜間救急に2回お世話になったときの採取も、2回ともどす黒く映ったのをおぼろな意識の中でも覚えている。

醜く濁っていて、穢れそのもののように思わずにはいられなくて。
ヒトの皮を借りたヒトナラザルモノなのか、わたしはやっぱり。

そう勝手に自責して。
黒っぽい赤ではなく真っ黒に見えたのは幻覚の端くれだったんだろうけれど。機能性ディスペプシアの時なんかは、物が全然食べれなくて栄養失調みたいな感じだったから、血の色が悪くても別におかしくはなかったはず。
でも当時はもう、そんな冷静に考えが整う精神状態ではなかった。


だから。だから、陽の光にあてられた濁りのない真朱まそほが見えたとき、唇が震えたのだ。
わたしの皮から流れ出たそれは、まるでずっと蔑んできた自身をも肯定してくれる気さえしたのだ。
「ここに在るよ」と教えてくれたみたいだった。
弱くてもちゃんと在る、ヒトで在る証を見せてくれた朱だった。


「これでまるをよしよしできるな〜」
ポーチを片付けてから猫に手を近づけると、猫は絆創膏の匂いが気になるようで鼻をくっつけてずっとスンスンフガフガしている。
面白かったのでなおさんに動画を送りたくて暇なほうの手でスマートフォンを探すと、撮られる気配を感じたのか息子はスン……と離れた。

「どうせ今、ぼくのぶさいくな顔とろうとしたんやろ」
わあ、バレてる。いや可愛いんですけどね。
「ちゃうよ、あんま見ない仕草やったから父ちゃんにも見てもらおうと」
「……もうしないもんね、それよりごはんまだ??」
「何言うてんの、朝ごはんあげたのさっきやからね」

わたしが言い終わる前には廊下に出て、さっさと寝室までの探検に行ってしまう自由すぎる猫の後ろ姿を見送りながら、手に取ったばかりの端末をまた置いて掃除を再開。
彼にカメラを向けるとノリノリなときと興味なさげなときがあって、今みたいにちょっと嫌がる素振りをしたら撮るのはやめる。
なおさんに見せれなかったな。ハンディモップをもう一度掃除道具入れから取り出す。ちら、と猫の毛が1本舞った。



黒黒と濁った心も血もきれいな色になりつつあるのだとしたら、長い月日をかけてわたしの穢れをろ過してくれたのは、他の誰でもないなおさんだ。
ほんとうはちゃんと気付いていた。どろどろなもやもやで悲惨な姿形になっていたヒトの皮の中身が、1日1日、少しずつ少しずつ彼の実直な気持ちを受けて浄化していったこと。

完全とは言えないかもしれない。ここまできた【うつ】は完治しないと思うから。
だけど感情が一粒一粒ろ過されていって、そうやって真朱に近づけているのだろうか。わたしも、ヒトらしさを纏いはじめてきたのだろうか。

……だけどこれは、自分勝手な綺麗事なのでは。はたと気付く。
ろ過したあとの浄水器が汚れてしまうことを、なぜ忘れていたのか。わたしの感情をきれいにしていってくれたのがなおさんなら、わたしから剥がれた汚れは今度は彼に付着してしまう可能性を。


なおさん、あなたは優しくて、優しすぎる。
体の不具合が相次いでもたくさん無茶してなんとかやり過ごせている中で、昨晩は鼻炎からの高熱も出して。
わたしの黒いどろどろなもやもや、そっちに行っていませんか。
わたし以外のいろんな物事からも、優しさがむしばまれていっていませんか。
今あなたが苦しいのは、そのせいではありませんか……?


そんなこと、わたしが赦さない。
ふつふつと。湧き出てくるのはアドレナリンみたいな血の気だった。浮かぶイメージは黒じゃなくて真朱。
彼がわたしを見放さないでずっとずっとそばで護ってくれたからこそ在る朱だ。
いつも体も気も張ってわたしの醜い心の内も受け止めて、仕事もたくさん頑張って支えてくれる夫を、わたしも護りたい気持ちはずっとある。
ずっとあったんだよ。

ごめんねなおさん、自分のことでいっぱいいっぱいな情けない妻で。
まだまだ情けないし頼りないけど、あなたがわたしよりも弱っているときくらい、わたしにも無茶をさせて。

……夫は優しいひとだ。優しい真朱みたいな心のひとだ。
どうか何者も、彼によって離されたわたしの汚れでさえも、彼の真朱にそれ以上触れないでほしい。



"今日の夜はお茶漬けかリゾットかにゅうめん、どれがいい?"
昨晩より熱は下がったけれどそれでもまだ37度台だった今朝のなおさん。元々食べやすいものを晩ごはんに用意しようとは決めていた。
メッセージを送ると、お昼休憩の時間に「にゅうめん」との返答。
自分からセレクトに入れておきながらまともににゅうめんを作ったことがないので、色々レシピを漁る。

今朝はランチボックスではなく食べやすいおむすびを作って持たせた。しっかり栄養補給をしてくれているだろうか。
いつも支えてくれるこのひとを、こういうときは支えさせてほしい。非力だから体力勝負じゃなくても、出来ることはある。

いくつかのレシピを見た結果、にゅうめんに彼が大好きな山かけをつけてあげようと思った。
山芋か長芋を買って来なければいけないけれど、きっとあったほうが、なおさんは喜ぶかなと思ったのだ。
あのあと家事の続きをしてあっという間にだめになってしまった絆創膏を剥がす。痛痒いけれど、真朱まそほはあかぎれの向こうに鎮まっていた。
猫はリビングに降りてくる晴れの光を受けながら、眠そうに目をしぱしぱさせながら床に寝そべった。

「母ちゃん、父ちゃんのこと心配?」
「そりゃもう。なんで?」
「んーん、どっちもどっちやなあって思っただけー」
寝転がりながらあくびと伸びをする可愛い息子の写真を今度こそ撮って、なおさんに送る。仕事中の彼にとって大きな栄養源になるだろう。
まるは尻尾をひと振りして言う。
「今のは父ちゃんのためのサービスやからね」
晩秋なのに春のように暖かい陽に照らされて、猫の毛並みがきれいに艶めいていた。

『あかぎれからまそほ』

あなたのおかげできれいになってきている血と心を
、ちゃんと大切に、生きる。
ふたりで真朱になりたいのだと言う意志が芽吹いているのがわたしにはわかった。



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