創作:夕焼けと海と黒の鱗
「大事な存在って、こんなに怖いものなんだな」
青く短い髪の彼がこちらを向いて言う。
夕暮れのひとときだけ空に現れる紫を閉じ込めたような、切れ長の瞳がきれいだった。
ぽたん、ぽちゃん。
足元のコンクリートの壁に緩やかな波があたる音だ。生温い空気が海の匂いを運んでくる、ここは「釣れない」ことで有名なスポット。
まだこの町に移り住んで浅い青年は、仕事を終えて逃げるようにここへ来ていた。もうすぐ宵がくる。
彼の名前はポンムといって、少しだけ垂れ目な瞳は青りんごのように爽やかなグリーン。
釣りがすきで、いつもお気に入りのクラシックな車で、住みはじめた海辺の町の釣りスポットに行き試し釣りをする。
口実はそれだけれど、本当は彼にとって釣り場は逃げ場所だった。
食料が欲しいわけじゃない。魚なら家の近所にある魚屋が良い品を揃えているし。
だけどあそこの店主は声が大きすぎて少し苦手だ。並んでいる魚がびっくりして跳ねたのを見たこともある。
今立っているのは三日月みたいな形をした海の入り江で、小さく古びた灯台がもっと先のほうにぽつんとある。
ここから遠くに見えるのは、じきに消えそうな太陽の橙と夜の始まりの色。
それから海に浮かぶ孤島。観光客が多いらしく、明るい時間は船が行き来しているのを見かける。
島のシンボル的な、伝統芸術が保たれた古城も。そこに行くための石畳の坂も、周りの家々や店たちも。
夕暮れを迎える前くらいからぽつぽつと明かりを灯していくのだ。幻想的で温かな、人の気配の明かりだ。
太陽の垂れ幕が降りる頃、島はもっと煌めく。
ポンムは今いる入り江から見るこの景色も、釣りと同じくらいすきになった。
偉大なモンサンミッシェルは修道院だけれど、それを小さくしたみたいな感じだなと思った。
それから大きく違うのは、目の前の孤島の周りは干潟になることはないし、対岸と橋で繋がっているわけでもない。
船でしかいけない穴場の観光地なんだそう。実際に向こうに行ったことはない。
「見てるほうが綺麗でしょ」
独り言が漏れる。またひとつ島に明かりがついた。
少し場所を変えれば何かしら釣れるだろうに、ポンムは「釣れない」その場所から離れない。小さな魚の気配もないし、あるのは波と風と音。
なんで釣れないのかは誰も知らなくて。「底に住む古代魚にみんな喰われるから」みたいな馬鹿馬鹿しい噂までくっついていた。
リールを巻きつつ、青年は心臓の片端に何かが突っかかっている気がしてならない。
その馬鹿馬鹿しい噂が本当なら、ぜひ飛び込んでしまいたいのに。
長い息が漏れる。またひとつ島に明かりがついた。
……そろそろ帰ろうか。自分を待つ家と家族がいる。
でも、そんな理性が今は重い。
……ぐんっっ。
ぼうっと孤島の明かりを見ていたら、足元に垂らしていた糸の先の針が何かを引っ掛けた。
「やば、」
ぐん、ぐんっ、と竿をしゃくっても引っかかったなにかは外れなくて、最初は深さのある海底かそこにあるゴミか何かに触れてしまったんだと思った。
……いや。動いている。
引っ掛けた先の何かに揺さぶられるような振動が腕まで伝わってくるのだ。
ぐいぐい左右に振られるように引かれたあと、ギューンと逃げるように離れていく。よくある動きなんだけど、何かが違った。
なんか釣った?と言っても恐らく喰わせたのではなく、針がどこかに当たってしまった事故な感じはする。
なんだか強引に対応してはいけない気がして、ポンムは今度はゆっくり糸を巻いてみた。
また揺れたり、ぴたりと止まったり。離れていったときの速度は速くて、大きな「なにか」だと予想する。深いところにいるのか、まだ魚影が見えない。
ここででかい魚に出会えるなんて思ってはいなかったから、彼は恐恐と様子を見ながらリールを回す。
しばらくして、チカチカと瞬く鱗が見えた。糸に引っ張られるようにではなく、まるで意思を持って向こうから近づいてきているみたいな。
鮫とかだったらどうしようと思ったけれど、「それ」には確かに鱗がある。
黒い魚?そしてやっぱりでかい。見たことがない大きさと形。
鱗の艶めきがまるで夜空に貼られた星屑のようで、無意識に魅入っていたら、足元まで来ていた「それ」が一気に上がってきた。
バシャン。
水飛沫とともに顔を出したのは、切れ長の目をした短く青い髪の少年だった。
「……は、」
手を動かすのを忘れて視線を交わす。
少年、じゃないかもしれない。見た目は10代くらいだけれど、大人びて整った顔が眉間に深くしわを寄せながら睨んでくるのだ。夕陽が沈む前に鮮やかに空を染める紫を閉じ込めたような瞳がひどく美しい。
落ちていく夕陽が道を作る水面と、似たような色の明かりを纏う島の煌めきを背にして。
海から顔を出して足元のコンクリートに両肘をかけながら、少年は呆けているポンムに一言。
「痛えよ」
「へ、」
ぽちゃん、と水面で何かが跳ねた音がしたから覗いてみる。おそらく彼の、黒く広がる鰭が波紋を作りながらゆらゆら動いていた。
鰭には見覚えのありすぎる釣り針。
「連れない」スポットで釣れたのは、美しい黒の鱗を持つ人魚だった。
とっさに出た言葉は
「あ。ごめん、」
針が引っかかっているのは尾鰭のところ。どうやって取ったらいいだろうかと思っていたら、向こうがバシャンと跳ねた。
「うわ、あぶな」
ポンムは糸を慌てて緩める。変な動きをされてまた引っ張ってしまわないように。人魚はきれいに跳んで、今まで両肘をついていたコンクリートに座るみたいな形になる。それから
「海の中でも色々やってみたけど取れなくてさ」
美しい黒い鱗の先に広がる鰭をパタパタと動かすのだ。
針を自分で取ろうとしながら人魚は手を伸ばして、でもうまく届かない。
「足長いんだね」
「ヒトで言うと足だね、なんか違うけど」
「まあそうだ。こっちに鰭向けてくれる?」
ポンムは膝を折って、腰にかけたバッグにぶら下がっているペンチを手に取る。
「素手で触ると危ないから。ごめんね、」
不謹慎だけれど、顔や頭とかに当たらなくてよかった。そう口からこぼす青年の緑の目を、人魚はじっと見る。
濁りのない爽やかな青りんごの色だ。
この釣り針にはカエシがついていて、刺さるとなかなか取れない。喰った魚を逃さないようにあるものだけれど、人魚の鰭に当たるなんて誰か想像するもんか。
他の所を傷つけないように、ペンチで慎重に処理する青年を、人魚は興味深げに見ていた。
「……取れたよ。鰭でも痛いんだね」
「まあね、おれたちは痛いよ。魚は知らないけどさ」
「ごめん」
「もう良いよ。それで3回目。謝るのすきなの?」
ポンムは困ったように笑うしかない。痛いところをつかれたような気がした。
海に視線をやると、また少し夕陽の線が細くなっていた。
自身から名前を告げると、人魚は「スピネル」と名のり返してくれた。
「ブラックスピネルが由来なんだね、いい名前だと思うよ」
「うん、死んだ祖父ちゃんがつけてくれたんだよ。俺も気に入ってる」
にし、と切れ長の目を更に細めて笑う。彼は笑うと目尻にしわが入ることを知った。
もう自身の影も伸びきって夜は近いのに、彼の鱗はきらきらと強く光の粒を放っている。ブラックスピネルというのは天然石のことで、黒なのに光を優しく強く放って輝く。それはダイヤモンドに匹敵する美しさなのだという。
「お祖父さんは物知りだったんだね」
「そうだね、ヒトと仲良くなるのがうまかったから。だからこの名前もきっとヒトからもらった知恵だよ。弟の名前だって、………」
そこでハッとしたように口をつぐむ彼にポンムは訊ねる。
「どうしたの、おとうと?」
スピネルは思い出したみたいに切れ長の目を大きく開いて、勢いづいた声で言う。
「あのさ、人魚見なかったか?」
ポンムは少しだけ首をひねりながら、目の前の人魚を青りんご色の瞳に映す。
「今、見てるけど」
「いや、俺じゃなくて。弟なんだけど」
探しにきたんだ、遠い海から。
「くじらとかシャチとかいろんなやつに訊きながら、なんとかこの辺まで来てみたんだけど」
言いながらスピネルは、どんどん痛みを帯びるように眉根を寄せていく。
好奇心旺盛な弟は、「ぼくだけの月を見つけに行く」と言い残してある日いなくなった。
ポンムは少し考える。
「弟はどんなひとなの」
「ヒトじゃなくて人魚ね。俺とは全然違って、あいつはきれいな銀の鱗の人魚だよ。同じ銀の髪で」
「スピネルだってきれいじゃないか」
「輝き方が違うんだ」
そんなものなのか、とポンムは思った。でもこれで少し確信に近づいたかもしれない。
「わからないし見たことはない。けど、噂なら」
途端、スピネルの驚く顔。背景の太陽はそろそろ就寝を迎えそうだ。
今ふたりがいる入り江から海に出て、あの古城の島のもっと向こうにある小さな港町。
車で行くとぐんと遠回りするけれど、ここからの直線距離ならどうなんだろうか。それでも遠いか。
「その港町で、満月の夜に銀の鱗の魚が泳ぐのを見た人がいるとか」
「満月の夜、」
「うん。あ、今日は満月じゃないけど」
満月、とスピネルは繰り返し呟きながら、顎に片手を当ててうつむいて考える。仕草は人間だなあとポンムは思った。
「銀の鱗の魚って、どんなだ?」
「そこまでは。ぼくもこの辺に引っ越して間もないし……。でも大きな鰭を見たっていう漁師もいるとか」
ポンムはなんとなくスピネルの黒い尾鰭を見つめる。
噂は、以前違う場所で釣りをしていたときに、となりで竿を垂らしていた老夫に聞いたものだ。勝手に向こうが独り言のように話していたことだけれど。
この辺りではよく知られた話だそうで、ポンムはなんの魚だろうかと、ぼんやり考えていたような。
「たぶん、居る気がする」
スピネルの声で記憶から引き戻される。彼は入り江の向こうの孤島をじっと見ていた。目力があるから睨んでるみたいだ。
孤島はいよいよ明かりに満ちてきていて、沈む太陽よりも眩い。
「でも、それが人魚だっていう確証も、君の弟かどうかもわからないんだよ」
自身は「もしかしたら」と思って言ったことだけれど真実は不明だ。もし間違った情報で彼に負担をかけることになったら……。
「うん、弟じゃないかもしれない。でもそれならそれで、また探すからいいんだ」
こちらを振り返った青い髪の彼は、目尻にしわを作って笑っていた。
ポンムの喉に引っかかっていた思いがつい口から出てしまう。
「どうしてそんなに必死になれるの」
ああこれは、卑屈になってしまった心故だろう。彼の真っ直ぐさと、芯の強さがわかる双眸が羨ましくて。
窮屈でしかたなかった。
家が狭いわけじゃない。夫婦ふたりと、コリーの血が入ったミックス犬の3人家族。犬が歩き回ってくつろげるくらいのちょうどいい広さの家だ。
ここから少し離れていて、2階のバルコニーからはあの星を集めたみたいな孤島を浮かべた海が小さく見える、丘の上のほうに建つアンティークだけどきれいな家。
家族が嫌いなわけでもない。むしろ今すぐ会いたい。
だけど。口を真一文字に閉じたままギリ、と歯が静かに鳴った。そばで、人魚がじっと見てくる。その淀みのない夕焼けの紫の目で。
新しい仕事場は居場所をまだ見つけられなくて、機械音とともに心臓がひどく脈を打つ。疲れた身体で田舎町を歩くと、なんでか快活な住人たちの声や呼びかけに思考の糸が絡まるのだ。
心が追いつかないまま帰宅する。ペーシュという名前の妻は心が優しい。なのに自身が優しくなれていない気がしてどうしようもない。
色々こんがらがったままベッドに倒れ込む。眠れば同じ明日がまた来てしまうのにと思いながら。
ごめん。
また謝ると、スピネルはむすっと顔をしかめるけれど、気にせず続けた。
「君みたいに必死になれる方法が、ぼくにはわからない」
放った口が虚しかった。本当に、どこに「頑張ること」を置いてきてしまったんだろう。
綺麗に澄んだ目を見ていられなくて手元に視線を移す。
ぱしゃん、スピネルが尾鰭で水面を軽く叩く音だ。そういえば、痛みは引いたんだろうか。
「必死になるってほんとにきついよな」
不意に降ってきた声に思わず顔を上げる。
スピネルは輝く孤島をまた見ていた。今度は少し穏やかな目で。
「例えばの話、あんたが行方不明になったとしても、俺はこんなに必死に探すことはないよ」
「ふふ、それはそうだね」
「モアは家族だからさ、必死になるのは当たり前なんだ」
ぱしゃん、尾鰭が水で遊ぶたびに鱗が艶めく。
モアというのが弟の名前なのか。
「弟を探しはじめてから、俺やっと必死になったんだ」
自分より図体のでかい哺乳類に訊ねるのも勇気がいるし、新月で方角がわからなくなったり、時には船のスクリューが迫ってきて命の危機を感じたこともあった。
それでも弟を追うことをやめる選択肢はないのだ。
怖かった。弟が戻ってこない未来が。弟と会えずに過ごす日々が。
「大事な存在って、こんなに怖いものなんだな」
スピネルの言葉に肺の奥の奥がぎゅっとなる。
「あんたはもう、俺なんかよりずっとずっと前から必死だったんだな」
「……え、」
泣いてしまいたくなるのをぐっと堪える。スピネルは少しいたずらっぽく笑って言った。
「たぶんあんたは、自分が今も必死に生きていることを忘れてただけだよ」
ぽちゃん。今度は静かに彼が海に入る音がした。
ポンムはハッと思い出して
「しまった、蘇生忘れてた。エラ呼吸苦しい?」
と慌てる。
「ばか、魚じゃないからな」
「でも人魚じゃん」
「そうだよ、ヒトみたいに息できるから」
そうなの?と、焦って強張った身体から少し力が抜ける。スピネルは足元の海水をひと潜りしてからまた顔を出して、釣られたときみたいにコンクリートに両肘をかけた。
「俺たちはヒトじゃないけど、ヒトと同じ肺があるし、ココロがあるんだよ」
もう水面は暗くて、それでもスピネルの鱗は美しく煌めいている。
「ココロってすごいんだ。ヒトはココロの力を見くびり過ぎなんだと思うよ」
怖いと思うのも頑張れるのも、泣くのも怒るのも、愛しいと思うのも。
全ては心からはじまる。
全ては心からはじまるんだ。
とうとう夕陽が眠りについて細いオレンジの線が消えても、彼の鱗と紫の瞳は光を取り込んだままだ。
「行くんだね。暗いけど大丈夫?」
「暗いほうが都合いいんだよ。それにほら、今は道標があるし」
「みちしるべ、」
小さく復唱するポンムに、人魚は口の端を上げながらそれを見やる。あの明かりで満たされる孤島だ。
「そっか。どうか気をつけてね。君を釣ったぼくが言える立場じゃないけど」
そう声をかけると、スピネルの紫の目が弧を描いて笑う。
「弟、会えるといいね。モア、だっけ」
「そう!モアサナイトってやつから祖父ちゃんがつけた名前だよ」
ああなるほど、ポンムは彼らの祖父の名付けのセンスに頭の中で感嘆した。
どちらもダイヤモンドに匹敵するかそれ以上に強く光を放つ、それは美しい石だから。
「俺も弟も見たことないんだけどね」
「うーん、実際にどっちもきれいな石だけど、別に見なくてもいいと思うよ」
君たちはそれよりさらに美しい鱗を持っているんだから。
そう伝えるとスピネルは少し照れたあと、それをごまかすようにして何かごそごそしはじめる。
パキン、と金属音にも似た高い音がしたかと思ったら、スピネルが「ほら」と手を差し出してきた。
「あげるよ、要らなかったら捨てて」
何も聞かず伸ばした手のひらにのせられたのは、彼の鱗だった。
「なにしてんの、痛くないの?」
「痛くはないよ、何度か釣人に引っ掛けられたときもあったけど、鱗だけくれてやって逃げたりもするし」
尾鰭はあんたが初めてだったけどな!なんて笑いながら言うのだ。
手元の鱗は一面つやんと光を纏っていて、このときのポンムにとってそれは、重い気持ちを光で跳ね返す魔除けのお護りにみえた。
魚は鱗が取れても再生する種が多いけど、人魚はどうなんだろうか。自身の親指の爪より面積のある1枚の硬い鱗を、彼は壊れ物を扱うようにそっとバッグの小さなポケットにしまう。
「ありがとう。絶対捨てない、宝物にする」
「ふはは、そこまで言われると気色悪いな!」
「ええ、ひどい」
ポンムは彼につられて笑った。
話せばこの子も快活だった。近所の町人と同じように。今更気づいたけれど、そんな彼に対して嫌な気分にはならなかった。
そうか、「窮屈」という言霊に縛られていたのかもしれない。ぼくは。
………自分も少しだけ、己で作ってしまった鱗を剥がしてもいいだろうか。
ヒトはココロの力を見くびり過ぎなんだと思うよ。
……そうか。ぼくはぼくの力を信じていなかったのかな。信じる勇気を削ってしまっていたのかな。
……まだ変われる。まだ変えられる。
全ては心から。
「じゃあ、まずはあの変な島までひと泳ぎするか」
「さっき道標って言ってたのに変な島って」
呆れ笑いつつ、ポンムも帰り支度をする。
「ぼくも帰るよ」
素直に、家に帰りたいと思ったのはいつぶりだろうか。
「あ、スピネル。島は人がたくさんいるだろうから、見つからないようにね」
「わかった。………ポンム!」
竿の連結部分を外して、半分の長さになったそれらをベルトで固定しようとしたとき。ここで彼にはじめて名前で呼ばれた。
ポンムは自分の名前がすきだった。たとえ彼らみたいにきれいな宝石が由来でなくとも。
だから、名前を呼ばれたことが嬉しい。
足元に彼はいなくて、少し先へ視線をやる。
スピネルは暗い水面の上に顔を出して声を張って届ける。
「ポンム、あんたのことはやっぱり、行方不明になったら全力で探してやるからな!」
弟と一緒に!
少しだけいじわるな、彼らしい優しい言葉だった。
このときにはもう、心のなかで強く思っていた。
きっと彼は弟に会えると。そうあって欲しいと。
ポンムは手を振りながら、同じように声を張った。久しぶりの大きな声だったから少ししゃがれたけれど。
「弟連れてまた会いに来てよ!」
お互いに必ず果たせるとはまだわからない約束事を、あえてする。たぶん叶う気がしたから。
ポケットの中の鱗は、芯の強い彼からもらったひと欠片の大きな勇気だった。
暗い海の中を泳ぐ、美しい煌めきがゆらゆらと遠くなっていって、眩しい孤島に少し近づいたところで深く潜ったのか、その光の粒は消えていった。
気付けば彼の瞳みたいな紫の空も鈍い紺色に変わっている。
見えなくなるまで見送ったあと、ポンムは踵を返す。きっとぼくはまた、何度もこの「釣れない」場所に釣りをしに来るんだろう。
車に道具を詰め込んで、家路につこう。
走り込まれた古い車に腰を落ち着けて、助手席に置いたバッグのポケットの中を指で探ってひと欠片の勇気を取り出す。ブラックスピネルのように艶めく黒い鱗を手のひらで眺めながら、青年はもう一度色んなものと向き合おうと思った。
明日になればまた憂鬱になるかもしれない。仕事になじめない劣等感が周りにはびこるかもしれない。
それでもきっと大丈夫。
ぼくにはこのお護りがあるし、果たしたい約束事ができたから。
大切な家族がそばにいるから。
「新しい友人ができた」と妻に話したら、きっと自分のことのように喜んで笑顔を向けてくれるんだろう。
遠くから見ているほうがきれいだと思っていたあの古城のある島へ、今度家族と出かけてみようか。そんな提案をしたなら、彼女はどんな顔をするかな。
魚屋の店主への苦手意識がなくなるかは知らないけれど。そこまで一度にたくさんのことがうまく回るとも思っていない。
ひとつずつ、少しずつ。
ああ今日は、ペーシュに話したいことがたくさんある。
こんな気持になったのは、もしかしたらこの町に来てから初めてかもしれない。
車窓から見る夜空は雲が混ざっているけれどちらほらと星は見える。だけど海に浮かぶ孤島の輝きが勝っていて瞬きは控えめだった。
チカ、と手元で光る黒い鱗に願いを込める。どうかあの兄弟が無事に再会できるよう。
そうしてまたあの場所でスピネルに会えるよう。
車は2回目でエンジンがかかって、ゆっくり車輪が回りだす。
大事なものは怖い。失ったり壊してしまうかもしれないから怖い。
それでもぼくには今日、新しい大事なものができてしまったんだ。
『夕焼けと海と黒の鱗』
玄関ベルを鳴らして間もなく。
ドアを開けながら迎えてくれたペーシュに笑顔で「ただいま」を告げる。
久しぶりになんだか嬉しそうな彼の表情を見て、淡い桃色の目に涙を浮かべながら、「おかえり」と彼女が微笑んだ。